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青森県北東部の本州最北端にある下北半島、鉞(まさかり)の形をしたその特徴的な形状の半島の中心部に、妻の実家のあるむつ市があります。
地理的には、北は津軽海峡を隔てて北海道に面しており、南西には、ほたて養殖の盛んな陸奥湾、それを挟んで津軽半島を臨み、そして東には東通村を挟んで太平洋が広がっています。
地形的には内陸中央一帯は、釜臥(かまぶせ)山を主峰とし、日本三大霊場の一つである有名な恐山(おそれざん)がある恐山火山帯が連なっています。
気候的には、年間を通して冷涼で、冬季の雪は青森県内にしては、比較的少ないものの寒さは厳しく、また初夏から夏にかけてオホーツク海気団からの冷たく湿った北東の風、いわゆる山背(やませ)が吹き荒れ、農作物に冷害をもたらします。
歴史的には、古代は、アイヌ語の湾や入り江を意味する宇曾利(うそり)と呼ばれ、平安時代の862年には、天台宗第三代座主慈覚大師円仁が宇曾利山を開き、これが現在の恐山の由来といわれています。
また、江戸時代には南部藩の代官所が置かれて、海岸部の大湊地域や水運のある田名部(たなぶ)地域は、北前船によるヒバ、アワビ、ナマコ、コンブなど上方への貿易により賑わいました。
ちなみに、すでに原子力船としては廃船となった「むつ」の名称は、進水時の母港であるむつ大湊港のある青森県むつ市にちなんでつけられました。
なお、「むつ」といえば、りんごの「むつ」を思い浮かべる人も多いのですが、この品種は、青森県りんご試験場が1930年(昭和5年)に、ゴールデンデリシャスと印度りんごを交配して育成した青森県産りんごの品種名です。
残念ながら、むつ市では、この「むつ」だけでなく、りんごそのものが、ほとんど生産されていません。
下北半島は冷涼と日照不足の気候のために、津軽半島と異なって、果実の生育に適しないのです。
妻と結婚して、三度目の帰省の際のお正月のことだったと記憶していますが、義兄、つまり妻の姉の旦那さんに、白鳥の飛来地という名所とともに、そのむつ大湊港の近くにある「斗南(となみ)藩上陸の地」という名所を、案内してもらったことがあります。
名所とは言っても、「斗南藩士上陸之地」と台座に刻まれた、比較的新しい石造の記念碑が海に向かって立っているだけの場所です。
身を切るような冷たい海風にさらされて、風花が踊るように舞って、記念碑を包み込んでいました。
斗南藩?
日本史はどちらかといえば好きな科目でしたが、斗南藩というのは記憶の底に沈んでいました。
それもそのはずで、斗南藩は、明治3年(1870年)に立藩されたものの、翌明治4年(1871年)年には廃藩置県により、斗南県となり、弘前県を経て、青森県へと編入されてしまって、斗南藩としては一年余の歴史しか刻めませんでした。
記憶が薄いのは、風雲、急を告げた幕末の歴史の流れの中に、斗南藩は、わずかに顔を出しただけで、うたかたのように流れ去っていったからでしょう。
ところで、そのむつ市にある「斗南藩士上陸之地」の記念碑は、福島県会津若松市の方向に向かって、建てられているそうです。
風の流れの 激しさに
告げる思いも ゆれ惑う
かたくなまでの 一筋の道
愚か者と笑いますか
もう少し 時がゆるやかであったなら…
なぜ、青森県の斗南藩の記念碑が、福島県に向かって建てられているのか、お分かりになりますか。
もっとも、これは、時代劇、とりわけ幕末物が好きな方には、簡単に分かることかもしれません。
すなわち、斗南藩の最初にして、最後の藩主は、会津藩第九代藩主、松平容保(かたもり)の嫡男、松平容大(かたはる)だったからです。
戦国時代以来の本格的な内戦ともいえる1868年(慶応4年)の戊辰戦争において、会津藩主の松平容保が、幕府方について、新政府軍との間で、会津戦争を引き起こします。
この会津戦争において、いわゆる、白虎隊の悲劇というものが生まれたのでした。
白虎隊は言うまでもなく、会津戦争に際して、会津藩が組織した15歳から17歳の藩士の少年たちの部隊で、勇敢に戦ったものの戦況は思わしくなく、近郊の飯盛山へと落ち延びていきます。
そこで、遠くに眺めた戦闘による市中火災の模様を、鶴ヶ城(会津若松城)が炎に包まれ落城したものと見て、総勢20名の若者たちが自刃を図りました。
その自刃より一月足らずで、会津藩は新政府軍に降伏し、鶴ヶ城を開城することになります。
明治元年(1868年)のことでした。
そして会津藩は、新政府により、藩領を没収され、藩主松平容保は禁錮の処分を受けます。
明治2年(1869年)、まだ三歳であった息子の松平容大に家名存続が許されますが、会津藩領は新政府の直轄地となっており、はるか遠くの下北の地に移封されて、斗南藩が成立するのです。
それゆえに、下北半島のむつ市にある「斗南藩士上陸之地」の記念碑は、往時に上陸した斗南藩士たちの望郷への念を配慮して、福島県会津若松市の方向に向かい、しかも、鶴ヶ城の石垣と同じ石を使って建てられたのです。
雲の切れ間に 輝いて
空しき願い また浮かぶ
ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
急ぐ命を 笑いますか
もう少し 時がやさしさを投げたなら…
斗南藩の「斗南」の「斗」という字は、「戦闘」の略字表記である「戦斗」を連想させますから、「斗南」は南と斗う(戦う)ことを意味するようにも思われます。
すなわち、会津藩より南にあって、会津藩などの幕府方を打ち破った明治新政府の江戸(東京)や、倒幕を推進した長州藩(山口)、薩摩藩(鹿児島)と戦う意味を藩名にこめたようにも思われます。
しかし、公式的に伝えられるところでは、「斗南藩」の「斗南」のいわれは、「北斗以南皆帝州」の中国の詩文に由来するといわれています。
つまり、「北斗以南皆帝州」とは、北の空に凛として輝いてる北斗七星の南は、等しくすべて帝(天皇)の国であるという意味になります。
会津の地であっても、そこから遠く離れた最北の下北の地であっても、すべて北斗七星の南の「斗南」であり、同じく天皇の国土に違いはないのだから、この地で再興しようと決意をこめたのでしょう。
幕府方の会津藩なのに、なぜ帝(天皇)の国にこだわるのかと思いますが、会津藩は、もちろん徳川家ゆかりの松平家が藩主の親藩ですが、天皇家と常に敵対関係にあったわけではなく、むしろ、皇室への尊崇も深い藩といわれ、とりわけ明治天皇の父親である孝明天皇とは親密な信頼関係がありました。
ちなみに、孝明天皇の妹がいわゆる皇女和宮で、徳川幕府第十四代将軍徳川家茂の妻です。
当時、会津藩主、松平容保は江戸幕府の京都守護職という要職にあり、公武合体派の孝明天皇の意を受けて、配下に新撰組を設置するなど、過激な尊王攘夷派の取り締まりを担当していました。
それが、孝明天皇の突然の崩御により、幕末から明治維新になって、天皇の、朝廷の敵、朝敵とされ、逆賊扱いとなったことは、なんとも歴史の皮肉です。
「勝てば官軍負ければ賊軍」のことわざどおりです。
歴史に「もしも」は空しさが募るばかりですが、倒幕派による暗殺説もある保守派の孝明天皇が、もう少しの間でも、生きておれば、倒幕派の薩長連合が官軍ではなく賊軍となったかもしれないのです。
ちなみに、戊辰戦争以後の戦没者を慰霊するという靖国神社には、賊軍の戦没者は祀られていません。
つまり、戊辰戦争の幕府方兵士や、会津戦争の白虎隊、西南戦争での西郷隆盛などは、賊軍であるとして、祀られていません。
そして、日本を敗戦へと導いた太平洋戦争の指導者たち、いわゆるA級戦犯たちは、負ければ賊軍のはずなのに、靖国神社に合祀されているのです。
ところで、「勝てば官軍負ければ賊軍」ということに関して、想起する言葉に、近年の「勝ち組」「負け組」という言葉があります。
本来は、バブル崩壊後の日本経済の厳しい状況の中で、進取革新の創意工夫と努力で、生き抜いて行ける企業を「勝ち組」、旧態依然として淘汰されて潰れていく企業を「負け組」と呼んだのだと思います。
しかし、いつのまにか、企業の中で生き残れる人とリストラの対象になる人であるとか、収入や資産が多い人と少ない人、結婚できる人やできない人など、差別的な意味合いも含めた使い方をされ始めました。
ところで、「勝てば官軍負ければ賊軍」の言葉が生まれるより前に、我が国では、すでに「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉がありました。
「判官贔屓」とは、平家追討に活躍したにも関わらず、のちに征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く兄源頼朝に追われて討たれた、源の九郎「判官(ほうがん)」義経つまり源義経の、薄幸な不遇の生き様に、同情して肩を持ち、愛惜の念を持つことです。
そこから、弱者や敗者、薄幸の者に同情し、味方することを「判官贔屓」といいました。
白虎隊や忠臣蔵の赤穂浪士などが、いまなお国民的な支持を受けるのも判官贔屓といえます。
しかし、「勝てば官軍負ければ賊軍」「勝ち組・負け組」というのは、ともかく勝てばいい、勝った方が正しく、負けた方が悪い、という発想になりがちです。
「負け組」という決め付けや、レッテル貼りは、弱者や敗者、薄幸の者を、石もて追い払い、倒れたるところに、なおもて鞭打つような感すら受けます。
「勝ち組」が「勝ち」を得たのは、もちろん、それ相応の努力や実力もあるのでしょうが、運や偶然の力もあったはずですし、「負け組」が「負け」たのも、必ずしも怠慢で無力だったからではないはずです。
「勝ち組」が、「勝ち」に走って、人みなすべてが「勝ち」に乗り遅れまいとするような、「勝ち」至上主義のような風潮が続けば、大切ななにかを失っていくように思えるのは、もはや「判官贔屓」を受け得なくなった「負け組」の負け惜しみ、「負け犬の遠吠え」に過ぎないのでしょうか。
愛しき日々の はかなさは
消え残る夢 青春の影
きまじめすぎた まっすぐな愛
不器用者と 笑いますか
もう少し 時が たおやかに過ぎたなら…
みちのくの斗南いかにと人問わば
神代のままの国と答へよ
会津藩再興の夢を、下北の大地に求めたものの、斗南藩権大参事山川浩が残した句のように、神代のまま、大昔のまま、厳しい自然のままの荒涼たる下北の大地が、再興の前に立ちはだかりました。
むつ市には、いまも斗南ヶ丘が残っています。
斗南藩が、藩士の居住地として、藩士たちを開墾に従事させた広々とした土地ですが、広々としているのは火山灰質のローム層の地質のために、開墾が困難であり、農作物育成などにも不向きで、しかも丘陵地のために、やませなどの冷涼な天候が、まともに襲いかかるような地形の土地だったからです。
先祖代々より下北に住む地元の住民すらも放置せざるを得なかったような土地です。
しかも藩士といえば、やはり士です。
士農工商時代の士です。
サラリーマンがリストラにあって、やむなく不慣れな土木作業や農作業に従事するようなものです。
結局、恐山を管轄する田名部(むつ市)の古刹、円通寺に置かれた斗南藩の仮藩庁も、藩主が知藩事となって東京に移住して閉ざされ、求心力を失った藩士たちは、数年を経ずして離散してしまいます。
素人目にも、やはりこの地は過酷過ぎたんだろうなと、昭和に入って北海道からの開拓者により、開墾跡地に作られた、斗南ヶ丘の牧場の搾り立ての牛乳を飲みながら、往時を思い浮かべました。
異郷の地において、不自由な暮らしの中で、散っていった藩士たち、それはあたかも、白虎隊と命運をともにするような生き様だったのかもしれません。
愛しき日々は ほろ苦く
一人夕日に 浮かべる涙
人の一生は、ひとつひとつの歳月の積み重ねであり、その歳月は、やはり日々の積み重ねです。
そして、愛しき日々は、決して、過去のみにあるものではなく、未来にも、きっとあるはずなのです。
白虎隊の少年たちは、燃えさかる炎のなかで、将来の愛しき日々があることを見失い、斗南藩士たちは凍える大地の中で、未来の愛しき日々があることを信じきれなかったのでしょう。
しかし、昨日までが、愛しき日々ならば、今日も、そして明日も、やはり愛しき日々になることが、できるはずなのです。
そして、それを信じて生きていく日々が、やはり愛しき日々…。
この歌は、1986年(昭和61年)の年末に、日本テレビ系で放映された時代劇スペシャルの「白虎隊」の主題歌として、小椋佳さん作詞、堀内孝雄さん作曲で作られました。
堀内孝雄さん、1949年(昭和24年)10月27日、大阪市阿倍野区出身、血液型O型。
谷村新司さん、矢沢透さんともに「アリス」を結成し、アリス時代にも、堀内孝雄さんは、ソロとして「君のひとみは10000ボルト」をヒットさせます。
しかし、堀内孝雄さんが、アリス時代のサウンドから解放され、本格的に独自のべーやん演歌ワールドを築くきっかけになった曲が、この「愛しき日々」だったと記憶しています。
(初稿2006.1 未改訂) |