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遠賀川 土手の向こうにボタ山の
三つ並んで見えとらす
今から約2500年前、中国、朝鮮半島からの渡来人により稲作文化がもたらされ、我が国の文化の源流ともいうべき弥生文化が形成されていきます。
九州は福岡県の北部に位置する遠賀川(おんががわ)流域も、伝来地のひとつで、遠賀川の川床からは、縄文式土器とは形状、文様の異なる土器が出土したことから、これと同じ特徴を持つ弥生時代前期の土器のことを、遠賀川式土器と呼びます。
時代は下って、江戸時代の福岡黒田藩に生まれ、「養生訓」や「大和本草」を著した儒学者・博物学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂した「筑前国続風土記」には、遠賀川に鮭が遡上し、その鮭を大明神として祀っていたことが記されています。
そして、また、その風土記には、「燃え石」あるいは「焚石」として記されている石炭が、すでに庶民の間で利用されていることが記されており、のちに米などとともに、藩の専売品として、遠賀川を利用して、全国各地と取引されていったようです。
そして、さらに時代が下って、明治時代に入ると、富国強兵、殖産興業政策のもとで、官営八幡製鉄所が建設され、その近くの筑豊炭田は、その燃料の供給地として石炭採掘が事業化されていきます。
大正から昭和にかけては、三菱、三井、住友などのいわゆる財閥系企業が事業に乗り出して、遠賀川周辺で大規模採炭が行われ、三井田川六坑のある田川などの町は、炭鉱労働者やその家族が住み炭都と呼ばれました。
そして、第二次世界大戦中には、日本の植民地となっていた朝鮮半島から朝鮮人労働者が徴用されて、安い賃金で、劣悪な労働環境のもとで、炭鉱労働に従事させられます。
そして、第二次世界大戦の敗戦後においては、資源小国の我が国にあって、石炭は日本の産業の復興を支えるべく原動力となったのです。
しかし、いわゆる技術革新による石炭から石油へのエネルギー資源の転換が進み、効率化と合理化を求める高度経済成長期の到来とともに、その役目を終え、多くの炭鉱が閉山を余儀なくされていきます。
石炭産業の隆盛で黒い川となって流れていた遠賀川も、周辺炭鉱の衰微によって汚濁が止み、代わって、豊かになった暮らしの生活排水の汚濁に悩まされながらも、水質浄化の取り組みにより、やがて再び鮭が遡上するまでに回復していきます。
炭都の名残として、筑豊に残っていた多くのボタ山も、筑豊富士と呼ばれている穂波町の住友忠隈坑ボタ山、田川市の三井田川六坑ボタ山など、数えるほどに、少なくなっていきました。
ところで、ボタ山のボタとは、主に九州地方でいわれる石炭を掘る際にまじって出てくる岩石や、質の悪い石炭の塊などのことで、それを分別して野積して、人工の山のようになったのが、ボタ山です。
安全性を軽視した落盤や爆発などの炭鉱事故も数多く起ったために、ボタ山が1メートル積まれるごとに、鉱夫1人が死んでいったと言われています。
そのような土地柄に育った人にとっては、ボタ山は、娯楽の少ない場所での遊び場でもあり、また身近な人の死の墓標でもあったわけです。
信ちゃん 信介しゃん
うちはあんたに逢いとうて
カラス峠ば 越えて来た
ちなみに、カラス峠…、土地勘のないぼくは、長らくガラス峠だと思っていました。
ガラスの破片が敷きつめられて、越えるだけで、血まみれになりそうなガラス坂ならぬガラス峠。(笑)
筑豊富士のある飯塚から、炭都の田川へ抜ける峠の名前が烏尾峠(からすおとおげ)ですから、カラス峠というのは、香春岳(かわらだけ)が遠望できる烏尾峠の地元での呼び方なんでしょうか。
そやけん
逢うてくれんね 信介しゃん
すぐに田川に 帰るけん
織江も 大人に なりました
そやけん…、それだからという意味の九州方言ですが、これを大阪弁に翻訳してみると…。
せやから
逢うったてぇな 信介はん
すぐに田川に 帰るさかい
なんか曲のイメージまで変わりそうですね。(笑)
他の地域の方言なら、さらにどうなるんでしょうね。
月見草 いいえそげんな花じゃなか
あれはセイタカアワダチソウ
セイタカアワダチソウ(背高泡立草)というのは、北アメリカ原産の帰化植物で、明治時代に観賞用に移入されたとか、輸入木材に種子がついてきたとか、あるいは、花の少ない晩秋に咲くので、養蜂業者が全国に広めたからと諸説があるようですが、ともかく、河川敷や空き地を舞台として、西から東へ急速に繁殖して行ったそうです。
昭和40年代の高度経済成長期の大気汚染・水質汚濁・土壌汚染などにより自然が失われていく環境悪化の時代に、在来植物を駆逐するように急激に繁殖したために、あまり良いイメージをもたれず、また虫媒花で花粉の飛散範囲が狭いにも関わらず、花粉症の原因という汚名も着せられました。
ブタクサと混同された花粉症の元凶という冤罪は晴らされて、また、いつしか繁殖の勢力も弱まりましたが、いちど定着した悪役のイメージは払拭されず、今もって、セイタカアキノキリンソウという別名があることすら、あまり知られてませんね。
富士には、月見草がよく似合ふ
「富嶽百景」−太宰治
一方の月見草は、太宰治が日本を代表する富士山に比して述べたことから、純和風のイメージがもたれがちなんですが、月見草も、北アメリカ原産で、江戸時代に観賞植物として渡来したものです。
別名マツヨイグサとも呼ばれ、岡山県出身の独特の可憐な美人画で有名な竹久夢二の「宵待ち草の歌」から、宵待ち草とも呼ばれています。
月見草 花のしおれし原行けば
日のなきがらを 踏む心地す
与謝野晶子
与謝野晶子も、太宰と同じく、月見草を夜に咲く黄金色、黄色い花をイメージしていますが、本来の月見草は白色だそうですが、あまり見かけません。
いずれにしろ、一夜に咲いて赤くなってしぼむ月見草は、アカバナ科で、夏に咲くために、夏の季語とされています。
夜の短い夏に咲いて、血のにじんだようにしてしぼむ月見草は、真夏の夜の夢にふさわしい花としてイメージしやすいのでしょうね。
一方、キク科で、人恋しくなる秋にススキの横で揺れているセイタカアワダチソウは、秋に咲くために、季語は秋とされています。
信ちゃん 信介しゃん
うちは一人になりました
明日は 小倉の夜の蝶
さて夜の蝶は、月見草などの蜜を吸いに来る夜行性の蝶のこと…ではありません。(笑)
夜の蝶は、盛り場のバーやキャバレーなどで接客するホステスの女性のことで、ホステス、つまりは水商売の女性、オミズさん…って、そこのオヤジさん、蝶より蛾の方が多いんじゃないか、なんて、ぼやかないでくださいね。(笑)
いずれにしろ、最近でこそ、水商売という職業に対して、あまり偏見をもたれないようになってきましたが、むかしは、あまり良いイメージがありませんでした。
抱いてくれんね 信介しゃん
どうせ汚れて しまうけん
最近では、フーゾクというお仕事も市民権を得たようで、これは、バーやキャバレーなどの風俗営業許可店で働くことも含まれる場合もありますが、多くは、ソープランドやファッションヘルスなどの性風俗特殊営業店で働くことを言います。
ちなみに、いわゆるスナックというのは、喫茶店やレストランと同じく、飲食店の営業許可店であり、法律的には、バーやクラブのように、客の横にはべらせて、接待させるには、警察(公安委員会)の風俗営業許可が必要となります。
香春岳 バスの窓から中学の
屋根も涙でぼやけとる
農村部などから都市部へ、中学校や高校を卒業した学生たちを就職させるために乗せて走る集団就職列車は、1954年(昭和29年)に運行を開始し、1975年(昭和50年)まで走っていたそうです。
1950年(昭和25年)の中学卒業生の高校進学率は全国平均で40%、1955年(昭和30年)で52%、1975年(昭和50年)で92%という推移をしていますから、1975年(昭和50年)まで走っていたというのが、なんとも意外です。
いまや、大学や専門学校等への進学率も全国平均で65%を超えており、予備校生なども含めれば、まさに高学歴社会の到来を裏付けてますが、一方では、進学も就職もしていない若者も増えています。
信ちゃん 信介しゃん
うちはあんたが好きやった
ばってんお金にゃ 勝てんもん
このような、学校にも行かず、働いてもおらず、職業訓練にも参加していない若者を意味する言葉がいわゆるニート(NEET=Not in Education, Employment or Training)です。
このニートの問題は、働かなくても親がかりで、それなりに豊かで自由気ままな生活を許している家庭の問題ですが、親の世代が老齢化したときに、その扶養介護どころか、自身が生活保護などの要福祉状態に陥いる可能性があります。
この意味では、社会の負担が増え、真面目に勤労することをむなしくさせ、健全な社会の維持向上を阻害する社会問題でもあります。
そやけん
手紙くれんね 信介しゃん
いつかどこかで 逢えるけん
織江も 大人に なりました
青春とは、自立の季節です。
自立を目指さない青春は、花開くこともなく、実を結ぶこともなく、どんなに強がり、どんな言訳を用意しようと、朽ちていくだけの人生になります。
眠れないほどに、血を吐くほどに、悩み、苦しみ、悲しみ、それらを抱きしめて生きていくことこそが、青春そのものなんです。
未来ある若者たちよ、その青春の門へ…。
山崎ハコさん、1957年(昭和32年)5月18日、大分県日田市生まれ、血液型はAB型らしいです。
ハコという芸名の由来は、本名(旧姓)の山崎初子(やまさきはつこ)さんからということですので、当然、芸名の読みも、山崎ハコ(やまさきはこ)さんです。
だから、「やまざきハコ」でなく、「やまさきハコ」、と読む人は、かなりのツゥということになります。(笑)
だから、その人の前で、「やまざきハコは暗いんだよねぇ〜〜〜」などと、うっかり言えば、「暗い」という言葉には反応しませんが、「やまざき」には敏感に反応して、「ハコさまの姓も満足に読めないアナタにナニがワカルの」と、その夜、おそらくあなたの髪の毛を巻いたわら人形に、トン・トン・トントンと、軽やかに五寸釘が打たれることになりますので、十分に、健康に体調に、ご注意ください。(笑)
なお、蛇足ながら、「中島みゆき」は、「なかじまみゆき」ですが、九州鹿児島出身の「中島美嘉」は「なかしまみか」と読みますから、九州は濁点読みしないのだと、九州長崎出身のさたまさしさんが言ったとか…言わない。(笑)
1975年「飛・び・ま・す」というアルバムでデビュー、その暗さにおいては、森田童子さんと甲乙つけがたいのですが、森田さんが、沈んだ静的な暗さならば、ハコさんは落ちていく動的な暗さでしょうか。
そして中島みゆきさんの暗さと、この二人の暗さを対比させて、検討してみるのも面白いのですが、彼女たちには、かなり熱心なファンがおられますから、それらは、その各研究会にゆだねておきます。(笑)
この曲は、五木寛之さん原作の映画「青春の門」のイメージソングとして、山崎ハコさんのもっともヒットした有名な曲ですが、どちらかといえば、山崎ハコさんの本来の楽曲としては少し異質な感じがします。
「青春の門」は、1975年、1977年に、伊吹信介役に、田中健さん、牧織江役に大竹しのぶさんで、東宝で映画されて、映像としては、こちらの方が印象が強い方の方が多いと思うのですが、山崎ハコさんは、1981年の佐藤浩市さん、 杉田かおるさんの東映映画の「青春の門」の音楽の担当です。
なお、五木寛之さんの「青春の門」は、信介と二つ下の織江の青春が描かれた「筑豊編」から、「自立編」「放浪編」「堕落編」「望郷編」「再起編」と続く大河小説で、いまだ未完だそうです。
(初稿2005.6 改訂2014.9) |