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「歌は世につれ」―N.S.P

   街頭では学生たちが
   マイクをもって声をあげる
   決まりきったように政治の季節
   どこかの店先に流行りのメロディ


第二次世界大戦で連合国に敗戦した日本は、1951年(昭和26年)に、アメリカ合衆国などの連合国との間の戦争状態の終結のために、「日本国との平和条約」いわゆる「サンフランシスコ講和条約」を締結することにより、主権を回復して、国際舞台に復帰した。

その際に、日本が国際法上の個別的自衛権に基づいて防衛力を高めるまでの暫定措置として、日本に進駐し占領していたアメリカ合衆国の軍隊が、在日米軍として引き続き駐留するために、アメリカ合衆国との間で、安全保障に関する条約を締結することにした。

いわゆる、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」である。
つまりは、これが旧の日米安保条約である。

この条約の目的は、当面、防衛力増強のための再軍備に多大の経費をかけるより、防衛についてはアメリカ合衆国に委ね、戦後復興を優先させたためといわれている。

なお、1950年(昭和25年)には、東西冷戦構造の枠組みの中で、朝鮮半島における大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮戦争が勃発している。

また、同年には、GHQ(連合国総司令部)のポツダム政令による武装組織として警察予備隊の設置が要請され、1954年(昭和29年)には自衛隊と発展していくとともに、1956年(昭和31年)の経済白書では、「もはや戦後ではない」と、経済復興をなしとげたとされた。

そして、1960年(昭和35年)には、アメリカ合衆国との間で、個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」を締結する。
つまりは、これが新日米安保条約である。

この条約の締結過程においては、政府与党である自由民主党が条約の国会承認を強行採決するなどしたために、日本社会党や日本共産党の国会議員や、労働者、市民、学生などが参加する、大規模な反対運動を展開することになり、内閣打倒の政治闘争にまで発展し、実際、安保条約を推進した岸信介首相は辞任に追い込まれた。

全国の学生自治会が参加した全学連(全日本学生自治会総連合)を結成していた大学生は、当初、日本共産党の影響下にあったが、やがて、武力闘争を放棄した日本共産党から離脱して、共産主義者同盟(ブント)などの新左翼セクト(党派)を結成して、それらが共闘するような形で、大学内の改革だけに留まらず、安保闘争に参画していく。

そんなさなかの国会突入の抗議デモにおいては、学生運動家であり、日本共産党に入党後、ブントに移って活動を続けていた、22歳の東京大学の女子大生、樺美智子さんが、警官隊と衝突の際に、死亡するという事件も起こった。

安保闘争後も、ベトナム戦争の激化などを背景に、反米闘争、反戦平和闘争や、大学の改革や学生の自治、中央教育審議会答申への反対を求める学生運動などが、国公私立を問わず、数多くの大学で多発し、高校の一部にまで飛び火する。

1969年(昭和44年)、東大安田講堂において、ヘルメットと手ぬぐいのいでたちに角材と火炎瓶を持った学生たちと、ジュラルミンの盾を持った機動隊員たちとの対決や、催涙弾、火炎瓶、そして放水の応酬などの攻防事件は、テレビで実況中継により報道されて、多くの人々の記憶に残った。

しかし、1970年(昭和45年)に安保条約は自動延長されて、70年安保闘争というスローガン的な言葉だけが残るような形で、実際は、1970年は、安保の年よりも、「1970年のこんにちわ」の大阪万国博覧会開催の年として歴史に刻まれている。

その後、学生運動は多少の改革の成果をあげつつも、やがて多くの学生たちの熱意は衰退して、沈静化していくとともに、運動体の内部抗争やセクト内の内ゲバ事件などにより、活動家はもとよりも、さらに一般的な支持者、賛同者も失っていくことになる。

1972年(昭和47年)には、一部の過激派集団による連合赤軍リンチ事件や浅間山荘事件などが引き起こされ、支援を受けるべき民衆や大衆から完全に遊離してしまい、政治闘争からも乖離して、学生たちの政治の季節の終焉を迎えた。

   情熱を注ぐのは何でもいいし
   どれもこれもが1つの青春で
   僕もこうしてギターを持って
   LOVE SONGを口ずさむ


日本は、第二次世界大戦において、連合国に対して、初戦の真珠湾攻撃やマレー沖海戦などの戦局は優位だったものの、総力戦となった半ばからは連合国の反攻を受けて、戦局は転換し、戦争末期に至っては、沖縄戦の激化、度重なる本土空襲、そして原爆投下と、国土を焦土化するような壊滅的な打撃を受けた。

1945年(昭和20年)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して、翌15日、ラジオから「君が代」が流れたあとに、昭和天皇は終戦の詔書をみずからの声で読み上げた。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」として、第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))において、米英中国ソ連の連合国四カ国に無条件降伏したことをラジオで放送した。
いわゆる玉音放送である。

終戦までのラジオは、戦況の報告や宣伝のための大本営発表を放送するとき、国民の士気を高めて、戦意を高揚するような、勇ましい陸軍の「陸軍分列行進曲(抜刀隊の歌)」や、海軍の「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」、「敵は幾万」などの軍歌を流していた。

また、軍歌ではないが、流行歌や歌謡曲として、やはり、国民の戦意高揚を図るために、「麦と兵隊」や「露営の歌」、「戦友」などの戦時歌謡や軍国歌謡をラジオは終戦まで流し続けていたが、戦後、占領軍として進駐したGHQ(連合国総司令部)は、それらの演奏や放送を禁止し、また禁止はされなくても、放送を自粛するようになった。

それに替わって登場してきたのが、「赤いリンゴに、口びるよせて、だまってみている、青い空」という「リンゴの唄」などの新たな歌謡曲であり、また「美空ひばり」に代表されるような昭和歌謡へと歌い継がれて、歌謡曲や演歌へとつながっていく。

また、「ビートルズ」に代表される世界的な音楽の潮流は、我が国おいても影響を与え、グループサウンズブームなどへと連なり、一方でまた学生運動などの際は、反戦歌やプロテストソング、カレッジフォーク、そして抒情的なフォークソングから、その後のニューミュージックの波へと連なり、ジェイポップスへと流れていく。

まさに、その時代、その時代の世情を反映しながら、まさに、歌は世につれ、世は歌につれとなるのである。

   死にたい時も何度かあった
   自分が嫌になることだって
   泣き顔だらけの僕のとなりに
   君が笑ってすわっていて欲しい


世情がさまざまに変遷するように、人それぞれの人生にも、さまざまな節目がある。

喜びも悲しみも織り交ぜながら、その人生の折節に流行っていた歌は、ときの流れのなかでも流されずに、いつまでも人の心のなかに、ぽつんと、となりに座っていて、たまにモノローグ(独白)を語るようにして、脳裏をよぎるようなことがある。

ときにやさしく慰めて、ときに激しく叱りつけ、ときに力強く励ますようにして……。
歌は世につれ……。



この唄は1978年(昭和53年)にリリースされた「八月の空へ翔べ」というアルバムに収録されていますが、もともとは、1976年(昭和51年)にリリースされた天野さんの初ソロアルバム「あまのしげる」が初出となります。

心象風景を切り取り、抒情的な楽曲が多いN.S.Pとしては、この曲は、珍しく社会派的な風景や言葉から始まる曲とされますが、N.S.Pの他の曲においても、一瞬の情景や感情を切り取っているように見えて、季節の移り変わりや、人の心の移ろいやすさ、ときの流れの中の情景を取り上げた楽曲も多くあり、それらは、ときと空間をうちに秘めた曲と理解すれば、この曲も、やはりN.S.Pらしい曲だと思います。

N.S.Pは、1972年(昭和47年)岩手県にある国立一関工業高専の同級生だった、天野滋さん、中村貴之さん、平賀和人さんで結成、1973年(昭和48年)第5回ポピュラーソングコンテストに「あせ」で入賞、「さようなら」でデビューし、1974年(昭和49年)には、「夕暮れ時はさびしそう」が大ヒットしました。

N.S.Pのリーダー、天野滋さんは、2005年(平成17年)7月1日、大腸がんによる脳内出血で、享年52歳で、亡くなられています。

ご冥福を祈りつつ、天野さんが多くの素敵な楽曲を残し、それが、歌は世につれても、歌い継がれて、聴き継がれていくことに改めて感謝いたします。  合掌。

(初稿2014.6 未改訂)


歌は世につれ
作詞/作曲 天野滋

街頭では学生たちが
マイクをもって声をあげる
決まりきったように政治の季節
どこかの店先に流行りのメロディ

歌は世につれ僕はおもう
燃えつきそうな若さにしがみつこうと
いつでも いつでも

情熱を注ぐのは何でもいいし
どれもこれもが1つの青春で
僕もこうしてギターを持って
LOVE SONGを口ずさむ

歌は世につれ人は誰でも
過ぎていった昨日にすがりついてる
いつでも いつでも

死にたい時も何度かあった
自分が嫌になることだって
泣き顔だらけの僕のとなりに
君が笑ってすわっていて欲しい

歌は世につれ僕はおもう
足並をそろえすぎて流れてしまう
いつでも いつでも
1978年(昭和53年)
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