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胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか
小学校時代の同級生に、「てっちゃん」、という子がいました。
幼稚園のときに、初めて一緒の組になって、その頃の幼稚園や小学校は、背の高さ順で並ばされていたために、長身だったてっちゃんとぼくとは、並んで行動させられることが多く、親しくなりました。
小学校時代、てっちゃんは、学校近くの公園で同級生たちが遊ぶ三角ベース野球をそばで見ていた病弱なぼくを、半ば強引に誘って、代走などの特別ルールで参加させてくれたりもしました。
気は優しいてっちゃんでしたが、やんちゃはやんちゃで、学校の廊下を走ったり、段とばしで階段を上がり降りしたり、掃除のほうきでチャンバラごっこしたり、大柄な体格と大らかな性格もあってか、てっちゃんは学級会では、よく女子から非難の的にされていました。
ある日の学級会のこと、学級委員の女子からの告発で、てっちゃんは先生から、名指しでこっぴどく叱られたことがありました。
もっとも、いつものことで、てっちゃんはふてくされた表情ながらも、反省の弁を述べて、その場は収まりました。
しかし、放課後の掃除のときに、てっちゃんと同じ掃除当番の班で、雑巾で拭き掃除をしていたぼくに、机を並べ終わったてっちゃんが近づいてきて、ごみ箱のごみを捨てに行こうと誘いました。
ごみ捨て場は、運動場のはしっこにあり、いつもはてっちゃんが他の誰かと行ってくれていたのですが、めずらしく誘われて、体調も悪くなかったので、一緒に行きました。
ごみ箱の重さがぼくにかからないように、少し高めに持ち上げるようにしながら、てっちゃんはぼくに、ぼそぼそと言いました。
「人のおらへん廊下とか階段の真ん中を走ったりしても、別に危なくないし、大丈夫やし、誰にも迷惑かけてへんと思おうへんか。」
学級会で女子に指摘されたことへの不満をたらたらというてっちゃんに、ぼくは、たしなめる、というより、なぐさめる感じで言いました。
「う〜ん、けどな、やっぱ走ったら危ないし、左側通行というのは児童会で決められたことやろ。それに、左側通行というのは、日本の道路交通法という法律でも決まってることやしな。」
てっちゃんは、そこで気が付いたように、うなづきました。
「日本の法律か、せや、あいつんとこは、朝鮮人やからな、日本人ちゃうねん。せやから、日本人のこと、悪くいいようねん。」
そういえば、学級委員の女子の名前も、日本名ながら、通名のような感じのする名前であったことに、ぼくも気が付きました。
しかし、それ以上に、てっちゃんの論理もおかしかったのですが、それ以上は、その話題が続くのは避けました。。
ぼくが生まれ育った大阪という都市は、地理的、歴史的な経緯もあって、全国から見ても在日朝鮮人の多いところです。
いや、朝鮮人ということで、差別を受けることもあり、隠していることも多いため、在日朝鮮人の数は、もっと多いのかも知れません。
そして、てっちゃんも、通名使用の在日朝鮮人でした。
しかし、てっちゃんは、それをずっと隠していました。
いや、むしろ、てっちゃんは、朝鮮人を公表している同級生や、在日朝鮮人と思われる同級生に対して、かげで、あいつは朝鮮や、朝鮮人やから、などと、侮蔑的、差別的な言葉を投げつけていました。
てっちゃんが在日朝鮮人と知っていたぼくは、それが不思議でもあり、その言動が不可解だったのですが、冗談めかした陰口、悪口の領域だったので、敢えて何も言わず、聞き流していました。
いちどだけ、同級生やその兄弟などで遊んでいたときに、ぼくが参加したてっちゃんのチームに負けた在日朝鮮人の同級生が、腹いせだったのでしょうか、特別ルールがおかしいと言いだし、ぼくの身体的なことをからかうようなことまで言ったことから、ぼくをかばったてっちゃんが、その同級生と言い争いになりました。
言い争ううちに、てっちゃんの悪口雑言が、エスカレートしてきて、在日朝鮮人の同級生に対する差別的な表現もひどくなってきて、収拾がつかなくなって、ぼくがてっちゃんをいさめたことがありました。
「てっちゃん、朝鮮人いうても、日本で生まれ育って、日本語しか話さない、日本人と同じやのに、朝鮮人やからおかしいねん、っていうのも、おかしいんちゃう、それは差別やん。もう、ええやん。」
てっちゃんは、驚いた様子で、ぼくをにらみつけて、そして、とても悲しそうな顔をして、黙って走り去っていきました。
それから、かなり時を経て、小学校の高学年になってから、なにがきっかけだったのかは忘れてしまいましたが、てっちゃんは自分が朝鮮人であること、ぼくに告白しました。
「悲しくてやりきれない」が流行った頃だと思います。
てっちゃんは、ぼくも在日朝鮮人だと勘違いしていたようです。
ぼくの姓が通名でもよく使われる姓であったために、ぼくを通名使用の在日朝鮮人であると思っていたようです。
ぼくが両親の出身地や先祖のお墓から、少なくとも江戸時代初期から日本人の家系だ、というと、困惑したような笑顔を見せました。
てっちゃんの両親の出身地は、北朝鮮で、親戚の多くは現在は韓国に住むという分断国家の悲劇そのものの話しで、両親は、故郷の北朝鮮に帰国するか、あるいは日本に留まって帰化するかどうかで、家族で話し合っているというようなことを話してくれました。
やるせなく、やりきれない思いだったのでしょうか…。
てっちゃんはその後、家族全員で帰化をして、てっちゃんは父親の稼業である鉄工所だったか、機械部品工場だったかは忘れてしまいましたが、あとを継いだと聞いています。
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか
中学時代の同級生に、野球部の「まつ」という子がいました。
まつは、野球センスも良く、投打ともに優れていて、しかし、勉強が苦手なために、キャプテンにはなれないというタイプの子でした。
あるとき、たまたま、まつが、亀裂骨折かなにかで、数週間、体育授業の見学をすることになり、ずっと体調が悪くて見学が続いていたぼくと見学中にいろいろと話しをして親しくなったのです。
あるとき、そのまつが、ぼくのところに来て、ちょっと勉強を教えてくれへんか、と言ってきました。
わけをたずねると、甲子園に行くために、高校野球で有名な私立高校の推薦入学の面接を受けたいが、いまの成績ではとても推薦できない、と先生に言われたとのことで、とくに、数学がひどいということでした。
ぼく自身も、決して数学は得意教科でもなくて、また野球部にも、キャプテンをはじめとして、もっと成績優秀な人がいるから、そちらに頼んだら良いのでは、と最初は断りました。
しかし、チームメイトには、ふだんの野球の練習では、いろいろと自分が教えている立場なので、その立場が逆転するのは、自分も相手も辛いから、という本音を言いました。
そして、まつは、体育の見学を見学していたときに、ぼくと高校野球やプロ野球のことをいろいろ話して、野球をした経験もないのに、野球部員より、野球のことよく知ってるな、気が合うなと思って、ぼくに教えてほしいということでした。
勉強のはなしとは、ぜんぜん関係あらへんことやな、と思う反面、現役の野球部員から、野球をよく知っている、気が合う、なんて、お世辞にしても、いわれては、断りきれませんでした。
部活が終ってからの帰り道すがらの勉強。
−1×(-1)=1 -1-(-1)=0
まつは、ここでつまづいていました。
-1に-1をかけると、なんで、+の1になるのか、
-1から、-1を引くと、なんで、0になるのか。
図を示したり、いろいろと説明しても、まつは納得しません。
次の日、また、部活が終ってから、ぼくは昨晩からずっと考えたことをまつに話しました。
「今日はな、ぼくから、教えてほしいことあるねん。」
「えっ、あほな、わいに教えられることなんかあらへん。」
「いや、勉強のことやない、野球の話や。」
一瞬慌てたまつは少し安堵した表情を見せました。
「野球のルールの話や。なんで三つのストライクでバッターアウトなんや、四つのボールで、なんでファーボールで一塁にいけるんや。」
少し怪訝な顔をしながらまつは答えました。
「えっ、そりぁ、野球のルールでそう決まってるからや。」
それから、ぼくは、インフィールドフライ、エンタイトルツーベース、スリーバント、振り逃げなどなど、野球のルールを例にあげて、なぜアウトになるのか、セーフになるのか、なぜ進塁できるのか、など、ぼくはまつに尋ねました。
「なんでや、いわれても、ルールで決まってることやからな。」
まつにそう言わせてから、ぼくはまつの顔を見ながら言いました。
「野球と同じように、数学にもルールがある。マイナスにマイナスをかけたら、プラスとする。マイナスの前に、マイナスがあったら、プラスとする。そういうルールやと思って、まず覚えてみいひんか。」
まつは、分かったような、分からないような顔して頷きました。
「野球もセオリーは大事やろ。けど、理屈抜きで、まず身体で覚えなあかんこと多いんちゃうん。ここはともかく、ルールやからと覚えてみる。せやな、打てない変化球は捨てて、打てる直球にだけミートする、そんな感じやな。」
それから、手書きの数学ルールーブックを作ってあげたり、テスト問題を採点したりして、まつの勉強の手伝いをしました。
そして、次の数学の定期テストが終わったときに、まつは答案用紙を見せにやってきました。
お世辞にも、いい成績とは言いがたい成績でしたが、基本的な数式計算などの点数の稼げるようなところは、クリアしてました。
ともかくこれまでの彼の数学の成績からは飛躍的に伸びて、先生からも誉められたと、報告しにきてくれたのです。
ともかく、ぼくがまつに教えた数学の必勝法、直球勝負と丸覚え打法は、効果をもたらすように見えました。
しかし、中学最後の文化祭のために、校舎の屋上で、友だちとギターの練習をしていたところに、まつがやってきました。
希望していた私立高校の推薦入学が、ダメになった、と、首をうなだれて報告しにきたのです。
「あの高校な、今年から、朝鮮人の推薦入学枠は、廃止する方針になったんやて。おれとこな、朝鮮人なんや。今まで推薦でいけてたのにな。でも、しゃあないな。違うとこ考えることにするわ。」
そういって、まつは空を仰ぎました。
私学の推薦入試のルール変更ではなすすべがありませんでした。
その、まつに、ぼくらが練習していた、「悲しくてやりきれない」は、どう響いたのでしょうか。
まつはその後、別の野球名門校に進み、甲子園を目指すも叶うことはなく、印刷所か紙工所かに就職をして、いわゆる草野球チームの地域のクラブチームに加入して活躍したと聞いています。
深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか
この「悲しくてやりきれない」という曲は、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」が、事実上の放送禁止歌となったために、「イムジン河」の代替曲として、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーである加藤和彦さんがイムジン河のメロディの音符を逆にたどって、そのイメージをもとにして、3時間あまりで作曲したといわれています。
確かに、「イムジン河」のコードの流れを逆にたどれば、「悲しくてやりきれない」のコードに近い配列となっています。
また、作詞は、戦後歌謡曲の「リンゴの歌」や、童謡の「ちいさい秋みつけた」などの作詞で知られるサトウハチローさんですが、加藤和彦さんによると、なんの打ち合わせもないままに、加藤さんが作られたメロディに、サトウさんが歌詞をのせられたということです。
この「悲しくてやりきれない」という曲は、リリースされた1968年(昭和43年)にヒットしたあと、2004年(平成16年)に公開された井筒和幸監督の映画「パッチギ!」では、「イムジン河」などともに挿入歌として使われています。
もっとも、この「悲しくてやりきれない」を、そんなメーキングに囚われずに、純粋に青春時代の唄として聴くと、切ないラブソングあるいは失恋ソングとしても、心の琴線に共鳴してきます。
ゆえにそれがやはり、名曲の名曲たる所以なのだと思います。
加藤和彦さんは、「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」というような遺書を残して、2009年(平成21年)10月16日に、長野県の軽井沢のホテルの一室で、みずからの命を絶たれました。
享年63歳でした。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
そのままの気持ちです。
加藤さんには、めぐりくる秋の空の青い空と白い雲、そして深い森の緑はいつしか見えなくなっていたのでしょうか。
加藤さんの楽曲を、誰かが小さく口ずさんでいるのが聞こえなくなって、「心と心が今はもう通わない」「あの素晴らしい」日があったことさえ思い出せなくなって、悲観的に思ってしまったのでしょうか。
そんなことはありません。
今でも加藤さんの楽曲が世の中に流れています。
いまでも誰かが心の中でつぶやくように歌っています。
心安らかに、永眠してください。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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※ここからは、マスター(館長)の在日朝鮮人に関わることを記述させてもらいました。マスター(館長)の私見として、建前よりも本音で、「意見には個人差があります。」というテロップ付として、ご了承ください。また、思想的、政治的、信条的、感性的に受け入れがたく、不快と思われる方もおられるかもしれませんが、ご容赦願います。 …………………………………………………………………………
「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」がヒットした頃から、かなりのときを経て、1988年(昭和63年)のソウルオリンピックや、2002年(平成14年)のサッカーワールドカップが、日本と韓国で共同開催されました。
そして、それに続くように、2003年(平成15年)からNHKで放送された「冬のソナタ」をはじめとした、韓国制作のテレビドラマが放映され、いわゆる韓流ドラマのヒットし始めました。
それだけでなく、旅行や音楽などにも韓国ブームが訪れて、いわゆる韓流ブームとなり、日本各地にあるコリアタウンも脚光を浴び、日本の韓国に対する偏見や差別感情が薄れてきて、在日朝鮮人に対する親近感も高まってきているように感じました。
ぼくが育った地域は、大阪市内でも、戦前からコリア・タウンを形成している地域に隣接する地域であったために、韓国系、北朝鮮系を問わず、在日朝鮮人は同級生などにも多くいて、
日常的に交流しており、就職や結婚などで悩む姿を身近に見聞きしていました。
しかし、在日朝鮮人が身近に生活している地域なんですが、身近に交流している分、親近感があるとともに、在日朝鮮人の考え方や暮らし方に対する微妙な違和感が、根強い偏見や差別感情を残して、複雑に絡み合うような地域であるのも事実です。
少年時代から青春時代にかけて、同級生の在日朝鮮人とは、比較的仲良くしてもらった経験や、あるいは社会人となってからは、仕事の関係上、在日朝鮮人との関わりも多くあり、自身としては、ともあれ韓流ブームで、日本人と在日朝鮮人との親近感が高まって、友好的な雰囲気となっていくことは、喜ばしいことだと思いました。
その半面、経年の国際環境の変化や韓国との地域的、人的交流の拡大などがあるにしても、これまでの日本人と在日朝鮮人との間にあった、積年の錯綜する憎悪や嫌悪感というものが、愛憎は背反するものとはいえ、韓流ブームということだけで、一転して、愛情や好意に転換するものなのか、という疑問も湧きました。
もっとも、韓流ブームは、いつのまにか我が家にも訪れており、リビングでは、韓国ドラマの朝鮮語や韓国を紹介する放送番組が流れて、また、食卓にはキムチやキンパ、チジミ、チャプチェやトッポギなどの韓国料理や韓国食品も並ぶようになりました。
しかし、急激に押し寄せる波のような韓流ブームに、これまで、親韓も嫌韓も意識したことがない自分にとっては、戸惑うばかりで、かえってそのブームの到来に猜疑心が芽生えて、またそんな懐疑的になっている自分自身の在日朝鮮人に対する、内なる差別意識の存在を意識させ、自己嫌悪にも陥るような状態になりました。
ともかくそんな状況で、新聞やテレビ、雑誌などのマスコミでは、漠然としながら日常的に、好韓、親韓が盛んに取り上げられることから、自分自身のバランス感覚として、韓流ブームの盛り上がるさなか、2005年(平成17年)に発行された「マンガ嫌韓流」などの、いわゆる嫌韓本を読みはじめました。
そして、その嫌韓本を読む中で、悲しいことに、 ぼくは子どもの頃に聞いた、在日朝鮮人を侮蔑する言葉を思い出しました。
「朝鮮、朝鮮と馬鹿にするな、同じ飯を食ってどこが違う」
この言葉は、在日朝鮮人がよく使う言葉として、日本人が、濁音の発声が苦手な在日朝鮮人の発音を真似して、 「チョーセン、チョーセン、パカ、スルナ、オナチメシクテ、トコチガウ」、と、侮蔑的に揶揄する言葉で、日本人の同級生たちは、争い、対立した在日朝鮮人の同級生たちを、大人たちの口真似をして、はやし立てたり、からかったりもしていました。
ぼくは、この言葉を、小学生のある時、思いもしなかった在日朝鮮人の同級生のおばあさんから、投げつけられたことがあります。
それは、在日朝鮮人の同級生が休んだとき、先生からの依頼で学校の帰り道に、学校のプリント類を届けにいったときのことです。
いつもは、ぼくが休んだときに、その同級生に届けてもらうので、そんなに親しくはなかったのですが、お互いの家は知っていました。
薄暗い路地にある文化住宅の一室の前で、ぼくは大きな声で同級生の名前を呼びましたが、人の気配はするのに出てきません。
もちろんインターホンなどありませんから、家の扉の前で、さらに大きな声で、同級生の名前を呼んで、留守ですか、いませんか、と何度か呼び掛けたときに、ぼくの後ろから、老婆が怒鳴りつけるような迫力で、その言葉を投げつけたのでした。
白っぽいチマチョゴリを着て、白髪頭で、にらみつける形相の老婆にたじろぎながら、なにがなにやら分からず、きびすを返そうとしたとき、急に家の扉が開いて、同級生が飛び出すように出てきました。
ぼくを呼び止めながら、そして、その老婆に対してなにやら話しかけて、老婆を家の中に押し込めました。
同級生はぼくに、老婆は同級生の祖母で、祖母は日本語がよく分からないから、日本人の子がからかいにきた、いじめにきたと勘違いしたんやと思う、あとでよくいうとくからと、無礼を詫びました。
ぼくも、びっくりして驚いただけやし、かまへん、かまへんと、プリントを渡して、先生からの伝言を伝えました。
後日、その同級生から、祖母が謝りたいっていってるから、学校帰りに寄ってくれといわれて、固辞したものの、それならぼくの家に祖母が謝りに行くといわれて、それも申し訳なくもあり、また有難迷惑でもあるため、やむなく彼の家によることにしました。
在日一世であるおばあさんは、片言の日本語で、まちがえてしまったことを詫びられて、ぼくが食べれるか、口に合うかを心配しながら、作ってあったノリマキ(海苔巻)をおやつに出してくれました。
今でこそ、韓国風海苔巻は、キンパと呼ばれて知られていますが、当時は、そんな呼び方もされておらず、同級生と一緒に、おやつがわりとして、ノリマキをいただいたことを覚えています。
もちろん、韓国風焼肉、キムチ、を、かなり以前から、ホルモン焼き、朝鮮漬けとして、すでに近くの駅前飲食店では、日本人にも食流通していた地域ですから、さほどの抵抗感はありませんでした。
ところで、最近、歴史認識ということがよく話題になっています。
歴史認識とは、歴史についての認識であり、歴史観です。
歴史というものは、本来、歴史的事実つまりは史実やそれを裏付ける資料を踏まえながら、あくまで歴史を客観的に解釈して、認識しなければならないものだと思っています。
しかし、史実はときに、さまざまな立場や思惑、意図から解釈されてしまいますし、また資料もときには、故意に毀損・紛失されたり、改竄されたり、捏造されたりすれば、歴史に対する解釈や認識が大きく乖離していくのは当たり前のことです。
改竄、捏造で思い出すのは、かってぼくが大学で学んだ歴史学の講義で、5世紀頃の古代の朝鮮半島にあった高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑、好太王碑文について、改竄説があることを担当教授が話されました。
改竄説は、古代の日本が朝鮮半島に進出した証拠とするために、大日本帝国陸軍の砲兵大尉が碑文に石灰を塗布して、組織的に碑文を改竄して拓本を採取した、という説です。
在日朝鮮人の歴史学者(大学教授)が、陸軍の石灰塗布作戦として唱えた説とのことで、この説によると、日本(倭)が朝鮮半島に進出して、高句麗の支配下にあった百済や新羅を破ったという碑文の史実を否定することになります。
碑文にわざわざ石灰を塗布して、都合の良いように改竄して、その証拠となる拓本を採取するという説は、面白く興味深い話しですが、しかし、陸軍の戦略として、軍人が占領地の石碑の碑文を手間暇かけて、わざわざ改竄するものだろうか、という疑問が湧きました。
同じように他の受講生たちも疑問を持ち、担当教授に質問しましたが、担当教授は、戦争という、非日常の極限状態の中では、常識では考えられないことが起こり得ることではないかと答えました。
しかし、日本にとって都合の悪い碑文ならば、改竄して、痕跡を残したままにしておくより、戦闘で現物を誤爆したことにして、跡形もなく破壊してしまった方がまったく都合が良いし、改竄説はなにか不自然ではないかというような議論をした記憶があります。
大学の講義の中の話しであり、当時はそこで議論は終わって以降は、ぼくの記憶の中からも遠のいていましたが、今回、改めて調べてみると、その後の研究では、古代から中国にあった拓本の発見等により、学説としての改竄説は、ほぼ否定されているそうです。
そう考えると、学術研究、学問の自由があるとはいえ、むしろ碑文改竄説の主張は、なにか史実を改竄するような意図や目的で主張されたのではないかというような疑念までも生じてきます。
なお、この担当教授は、好太王碑文改竄説の紹介に続き、古代日本の統一国家とされる大和朝廷は、朝鮮半島南部を支配した騎馬民族が日本を征服して樹立したものとする騎馬民族征服王朝説というのも講義の中で紹介されました。
そして、夏休みには、学生自身の家系のルーツを歴史的に調べる、という宿題も出され、いまから思えば、やはりなんらかの意図や目的で教養課程の大学生に講義していたのかもしれません。
学術的、学問的な難しい話はよく分かりませんが、前述の「チョーセン、チョーセン、パカ、スルナ」という話は、もちろん、日本人の同級生が在日朝鮮人の同級生を、侮蔑して、偏見を助長し、差別をする意図や目的で使われていたことは、ぼくの体験的な事実です。
そして、この言葉は、戦時中に強制連行された在日朝鮮人が、日本人に、理不尽にも、侮蔑されて、差別されて、やむなく日本人に対して、差別に抵抗し、平等な取扱を訴えるために、投げつけた言葉であると教えられ、またそう理解するのがふつうでした。
しかし、もうひとつの考え方に、これは戦時中の話しではなく、戦後の混乱期に入って、日本人と在日朝鮮人が対立したときから、よく使われた言葉であると記憶する人も多いのです。
終戦後に始まる戦後の混乱期には、在日朝鮮人が、空襲による焼け跡の土地を不法占拠したり、不足している食品や物品を闇市で大量に買い占めたりすることが、数多く発生したことがあったといいます。
そして、不法占拠に対して、土地の明け渡しを求めたり、買い占めに対して、食品や物品の販売に数量を制限したりする日本人に対して、在日朝鮮人が、大きな声と激しい口調で、日本人がそういう対応や態度を取るのは、朝鮮人を差別しているからだ、朝鮮人を馬鹿にしているからだ、と、この言葉が、返ってきたといいます。
日本人としては、日本の法律や商慣習、あるいは互助精神を説明して、説得、理解を求めようとするものの、いわゆる逆切れをされて、暴力的に威圧されて、身の危険すら感じるようなことも多く、進駐米軍に占領されている敗戦国家の国民の悲哀感と諦念感とともに、この言葉を真似て、嫌味として揶揄するようになったとのことです。
以上のことは、親の世代から聞いたあくまで伝聞のことです。
個別的な事情や、当事者間の思い込み、誤解もあると思います。
必ずしもこれが真実であるとは思っていません。
ただ背景的に、反戦、平和、自由、平等といった戦後の民主主義や平和主義の建前、理念、理想の前には、このような戦後の日本人の在日朝鮮人に対する複雑な思いは、当時の日本人には、語ることもためらい、うしろめたさすらも与えられて、沈黙や自制を余儀なくされてしまったことによる、という考えもあります。
もうひとつぼくの体験的な事実といえば、映画「パッチギ!」でも描かれていますが、朝鮮学校の生徒と、日本人生徒との軋轢は、朝鮮学校のある地域では想像以上にありました。
ぼく自身も、友だちと商店街の裏道を歩いていたときに、朝鮮学校の生徒に、恐喝つまりカツアゲされかかったことがありました。
相手から、お金を出せ、ではなく、お金を貸してくれ、といわれて、世間知らずだったこともあり、友だちでもないのに、お金を貸せってどういうこと、と躊躇しているうちに、次第に相手がいらだって、大声を出したときに、通りかかった同級生がその様子から近くの交番の警官を連れてきて、相手があわてて逃げて、事なきを得ました。
お金を出せといえば、もちろん恐喝になりますが、お金を貸してくれ、ということでは、単なる借金の申し込みであって、ただちに脅迫や恐喝にならないための手口であるということでした。
具体的な金品の要求はせずに、誠意を見せろや、とか、どうしてくれるんや、というのも、同じ手口であることを教えてもらいました。
もちろん、これも日本人の生徒が、仕返しと称して、朝鮮学校の生徒をからかい、恐喝や暴力行為をしていたことは、実際、同級生が自慢げに手柄話として話すのも聞いたことがあり、必ずしもどちらかが一方的な加害者や被害者ではなかったのも確かです。
真実はひとつなんでしょうが、その見極めは、難しいと思います。
まして、最近のように、中立・公正たるべき新聞や放送などのマスコミが報道した情報について、実は軽薄な誤報であったり、一定の主義主張に偏向していたり、あるいは捏造ではないかとさえ指摘されたりすれば、信頼性は揺らぎはじめ、ますます何が真実なのか見極めるのは困難となります。
一方では、インターネット情報は、発信力や物量的な流通量、即時性、検索性という面において、マスコミ情報よりも優れているものの、公平性や正確性においては、匿名性や出典などの根拠の曖昧性や責任性においては、マスコミよりも問題はあります。
もっとも、マスコミであれ、インターネットであれ、一定の権力の影響や圧力を受け、あるいは一定の人たちの権利利益のために、一方的に報道や表現、そして情報発信が意図的になされれば、いわゆる情報操作や洗脳ともいうべき、多くの人に一方的な知識や観念を植え付けて、国際的に見て、あるいは歴史的に見て、誤った判断や恣意的な選択を与えることが可能であり、それが憂慮されます。
繰り返しになりますが、マスター(館長)自身としては、親韓派、嫌韓派、いずれに与する気持ちもありませんが、日本人として、日本国民として、朝鮮半島との関係を考えたときに、やはり、このままの状態ではなく、真摯に議論しあって、なんらかの対応をしなければならない時期にきているものと思っています。
思い返せば、在日朝鮮人の同級生たちが示したような、弱いものに対する気遣いや思いやり、優しさなどに、感激したこともありましたし、一方では、関わった在日朝鮮人の人たちの傍若無人なルール無視や、恩を仇で返すような振る舞い、唯我独尊の自己主張の強さなどには、辟易とすることもありました。
同じ人間として、在日朝鮮人に対するいわれなき差別や偏見、それらに基づく、就職差別や結婚差別などは絶対にあってはならないことですが、だからといって、はれものにさわるような特別な扱いをするのは、いわゆる逆差別であって、それこそ人権無視です。
人としての権利、つまりは人権というものは、あくまで信頼に基づく相互尊重が基本であって、いかなる歴史的経緯があろうと、いかなる歴史認識の相違があろうと、在日朝鮮人だからといって、あるいは日本人だからといって、相手を侮蔑し、差別することを、正当化する権利は、双方にとっても、絶対にないと思っています。
そのうえで、これまで持っていた知識や認識が、ほんとうに正しいものであったのか、あるいは巷間流布されている情報が、ほんとうに正しいものなのか、なんらかの意図で情報操作されていないのか、などを、まず冷静に検証していく必要があると思います。
ここまでお読みいただいた方々に感謝するとともに、次のことを最後に記して、長々とした雑文の結びにかえさせていただきます。
てっちゃんとまつの話しは、2002年(平成14年)の期間限定の「イムジン河」と「悲しくてやりきれない」に掲載しており、当初は、その当時のエッセイを少し手直しをして、更新曲として、常設掲載化しようと思っていました。
しかし、日本と韓国、北朝鮮との関係は、決して良好であるとは言えない状況が長らく続いているのに、自身の過去の想い出を記して、自身は在日朝鮮人とと差別感情もなく、友好な関係を続けていたし、みなさんも、在日朝鮮人の方々や、韓国、北朝鮮と仲良くしましょう、友好関係を築きましょう、と締めくくるだけで、ほんとうにそれでよいのだろうかと、考えました。
そして、その日本と韓国、北朝鮮との外交関係や、 竹島問題、従軍慰安婦問題、日本人拉致問題、日韓併合条約や日韓基本条約、あるいは日本人と朝鮮人との歴史的な関わりや、在日朝鮮人の権利利益、いわゆる在日特権と呼ばれるものについて、中国との問題も併せて、改めて賛否両論、右翼左翼両翼、刊行物やインターネットのサイトや動画など、いろいろと調べてみました。
そして、歴史の表面には出てこないが、やはり巨大な政治的、国家的、思想的、そして経済的な権利利益に関わる裏事情や、政治家や活動家などの画策や謀略、そして、うかがい知れないほどの大きな深淵な闇があるのではないかと思い始めました。
それが、やるせない、やりきれない思いとなり、しかも、もちろんそれがどちらが正しいとも間違っているとも判断しきれず、スパイラル的にやるせない、やりきれない思いとなっていきます。
少年時代から青春時代にかけて、いわゆる反戦平和や自由平等というスローガンの左翼的な主張に魅かれつつも、そのあまりに理想論的な思想や、あるいは過激な革命的思想にはついていけず、かといって、君が代や日の丸、日本に愛着はあっても、愛国論的、民族的な優越を主張する右翼的思想にもついていけませんでした。
受けてきた教育、あるいは与えられた情報だけでなく、ここまで齢を重ねてきたマスター(館長)ですから、もっと多面的にこの問題について、もう少し冷静に時間をかけて考えてみようと思っています。
最近では、ヘイトスピーチが議論されていますが、もちろんいたずらに偏見や差別を助長し、憎悪を掻き立てるような表現については、表現者に対して自制自重を求めるのは当然ながら、しかし、一方が他方を批判するのは正義であるが、他方が一方を批判するのは不正義であり、悪であり、ヘイトであるからやめろ、おまえは差別主義者だから帰れ、というような議論を封殺するような、傲慢な政治家の主張には与することはできません。
また、少なくとも、日本人と朝鮮人の民族性の違いや、特定の地域の民度の違いや、国家体制の違い、歴史認識の違い、というようなことだけで、短絡的に矮小化して、朝鮮民族はこうだから、在日朝鮮人はこうだから、韓国・北朝鮮はこうだから、と断定的に言いっぱなすことだけでは、なにも解決するものではないと思っています。
もちろん、だからといって、このような主張を全面的に禁じて、いうな、しゃべるな、語るなでも、もちろん何も解決はしません。
最後に、在日朝鮮人のことについて、中途半端な知識と体験の記述と思われるところもあると思いますが、偏見や差別を生じさせる意図はもちろん毛頭ないことを付け加えさせてもらいます。
なお、現在は、韓国に住む朝鮮民族や韓国籍の人を韓国人、北朝鮮に住む朝鮮民族や朝鮮国籍の人を朝鮮人と呼び、それぞれ在日韓国人、在日朝鮮人と呼ぶようですが、朝鮮民族を指す言葉として朝鮮人として、在日本の朝鮮人を在日朝鮮人と表記し、また正式には、韓国は大韓民国、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国ですが、略称として使用しているだけで他意はありません。
また、在日本の朝鮮人団体としては、韓国が「在日本大韓民国民団(民団)」で、北朝鮮が「在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)」、また、朝鮮学校は、主として北朝鮮系の在日朝鮮人の子弟の通う学校のことで、各種学校扱いであり、韓国学校は、韓国系の在日朝鮮人の子弟の通う学校で、学校教育法に基づく学校(1条校)となっていることを付記しておきます。
※このエッセイは、2002年(平成14年)5月に、日本と韓国で共同開催された、第17回FIFAワールドカップ(国際サッカー連盟世界選手権大会)を記念して、青春音楽館に期間限定で掲載した初稿について、全面改訂したものです。
(初稿2002.6 改訂2014.10) |