|
水彩画の蜉蝣の様な
君の細い腕がふわりと
僕の替わりに宙を抱く 蛍祭りの夕間暮れ
蜉蝣は「カゲロウ」のことで、「ふゆう」とも読み、「蜉蝣の命」、「蜉蝣の一期(いちご)」といえば、人生の短くはかないことのたとえとして使われます。
蜉蝣のことを「蜻蛉」と書くこともあり、「蜻蛉」はトンボの古名として用いられていますから、古来、か弱く細長の体に、透明性の高い薄い羽を持つ昆虫たちの総称だったのでしょうか。
ちなみに、ウスバカゲロウの幼虫は、アリジゴクと呼ばれますが、このカゲロウは脈翅目に属し、カゲロウ目の蜉蝣と異なり、トンボ目の蜻蛉とも異なる…らしいのですが、どうも、生物学の分類はややこしくて、元生物部のマスター(館長)としては、ひとまとめに、「トンボの仲間たち」でええやんかって思います。(笑)
ところで、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」というのをご存知でしょうか。
平安時代の藤原道綱の母の作となる「蜻蛉日記」は、初めて女性によって書かれた日記文学です。
藤原道綱というのは、藤原氏の権勢を極めた「この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の異母兄弟にあたります。
つまりは、道綱の母は、藤原道長の父でもある藤原兼家の妻のひとりであり、その兼家との結婚の話に始まり、兼家との不和、悩みや苦しみ、そして子道綱への思いなどが、綴られています。
百人一首にも採録された彼女の、「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しき ものとかは知る」の一首が、端的に示しているとおりです。
もっとも、「蜻蛉日記」の蜻蛉は、トンボでもカゲロウでもなく、春先に空気がゆらゆらとする自然現象の陽炎(かげろふ)のことではないかという説もあります。
まあ、いずれにしろ、儚きものですね。
ともあれ、その蜉蝣を、水彩画で描く。
水彩画は、水彩絵の具で描かれた絵のことですが、水彩絵の具には、顔料の種類と展色剤の配合率の違いから、透明水彩(ウォッシュ)と不透明水彩(ガッシュ)に分かれます。
水彩画といえば、学童期に図工の時間や夏休みの宿題の絵を描くのに使った水彩絵の具を思い浮かべますが、学童用の水彩絵の具はマット水彩ともいわれて、本来の透明水彩と不透明水彩の中間にあたるようです。
透明水彩で、透明な羽のカゲロウを描けば、それこそ、淡い、儚い、絵になりますね。
それにしても、「水彩画の蜉蝣の様な細い腕」なんて、子どもと買い物袋を抱きかかえて鍛えられた、たくましき母の腕からは、しかも二の腕がプルプルの腕からは、かなり想像しにくいですよね。(笑)
えっ、現実に引き戻さないでって?
あらぁ、ごめんなさいね。(笑)
あっ、ほらほら、そろそろ蛍が飛び交う夕間暮れ。
大きく腕を上げない限り、浴衣の袖に隠れたプルプルの二の腕は見えませんって。(笑)
毎年6月中旬には、長野県上伊那郡辰野町で、ほたる祭りが開催されています。
中央アルプスと南アルプスに囲まれ、中央を天竜川が流れる水と緑に恵まれた町ですが、かって、水質等の悪化により、ホタルが激減したことがあります。
そのため、全国に先駆けて、町ぐるみで、水質環境の改善や、ホタルの保護、養殖に取り組んだ結果、大量のホタルの発生をみて、ホタルの乱舞が見られるようになったとのことです。
いちど行って、この曲を歌ってこなきゃあなと、ミーハーなマスター(館長)は考えています。(笑)
時折君が散りばめた 土産がわりの町言葉
から廻り立ち停まり
大人びた分だけ遠ざかる
方言という言い方があります。
地方の言葉という意味でしょうか。
方言に対して、標準語なんて言いますが、それはあくまで、広域的なコミニケーションを取るための共通言語を定めたというのが本来です。
標準語が綺麗で、方言が野卑だなんて、ことでは、絶対に、ちゃうで、と思います。(笑)
しかし、都会に出て行った恋人や友人たちが、帰ってきた時に、違う言葉遣いになって、イントネーションまでが変わってしまったことに気がついたとき、なにか、その人までが変わったような気がして、残されたものとして、さびしい気持ちになりますよね。
きらきら輝き覚えた 君を見上げる様に
すかんぽの小さな花が
埃だらけで揺れているよ
「すかんぽ」を辞書で引くと、漢字では「酸模」と書くそうで、またその説明には、イタドリ、またはスイバの異名で、すかんぽうともいう、とありました。
そして、季語としては、春とありました。
日本全国に自生する多年生草本です。
スイバは、酸葉とも書き、全体に赤みを帯び、葉は卵状長楕円形で、春に淡緑色の小花を多数つけます。
イタドリは、虎杖とも書き、葉は卵状楕円形で、初秋から小さな白い花がたくさんつけます。
どちらも、食用、薬用にも用いられ、酸っぱいそうですが、残念ながら味わったことはありません。
マスター(館長)は、すかんぽといえば、多分、イタドリの方をすかんぽと教えられ、そのように認識していたような気がします。
えらく勢いのある雑草という認識でしたが。(笑)
イタドリは、いわゆる風散布種子で、種子が風に運ばれて分布を広げていきます。
だから、風とすかんぽは、なかよしなのです。
いずれにしろ、すかんぽの花、地味な花、目立たぬ花、そして路傍の花ですね。
不思議絵の階段の様に
同じ高さ昇り続けて
言葉の糸を紡ぎ乍ら 別れの時を待ちつぶす
この不思議絵の階段というのは、美術の教科書に載っていたような、一階から二階に上がり、三階に昇ると、一階の階段につながっているように見える階段の絵で、おそらく、有名なエッシャー(Ehcher)のだまし絵に描かれるような階段なんでしょうね。
もちろん階段を昇っているような気がするだけで、実は平面をぐるぐる回っているだけのようなとき。
答えを出しきれないときに、よく味わうことですね。
細長い長方形の帯を一回ひねって、一方の端の表と他方の端の裏をはり合わせたときにできる輪、いわゆるメビウスの帯というのがありますが、これも考えれば不思議な空間ですね。
裏か表か、左まわりか右まわりか、いずれにしろ、元の場所に戻ってしまう。
結論はひとつしかないことは分かっている。
しかし、その結論を提示して、また提示されたその結論を受け入れることに、ためらいも残る。
いずれにしろ、どんな言葉の糸を紡いでみても、すでにほころびは大きく広がって、もはや修復ができないとわかっているから、それが哀しいのですね。
君ははかない指先で たどる明日の独り言
雲の間に天の川
君と僕の間に橋が無い
指を組み、指で叩く、指先でなぞる、ときとして、指先は、目よりも、口よりも、饒舌なのかもしれません。
天の川(あまのがわ)は、銀河系内の無数の恒星が天球の大円に沿って、夜空を横切る光の帯です。
この光の帯は天球を一周しています。
英語では、ミルキーウェイ(Milky Way)といいますが、これは女神ヘラが勇者ヘルクレスに与えた母乳が流れ出たという神話が由来です。
中国や日本では、こと座のベガである織女星、いわゆる織姫と、わし座のアルタイルである牽牛星、いわゆる彦星との逢瀬を妨げている川として、いわゆる七夕伝説とともに登場します。
そして、七夕伝説では、七月七日の七夕の夜にだけ、かささぎという鳥が、天の川に翼を広げて、二人を渡す橋をかけてくれます。
突然舞い上がる 風の篝火が
二人の物語に 静かに幕を引く
照明のために燃す火のことを篝火といいますが、篝火を恋情の炎にたとえることも多いですね。
源氏物語にも、光源氏が初秋の夜に、昔の恋人の夕顔の娘である玉鬘に琴を教え、庭に篝火を焚かせて添い寝をする篝火の段がありますが、妖しく燃える篝火が効果的な演出をしています。
余談ですが、シクラメンのことを篝火草ともいいます。
花の形状が篝火に似ているからでしょうが、篝火草では、燃えるような真っ赤でも、熱くなくて、ヤケドをしないのがいいですね。(笑)
そういえば、ホタルの光も熱を発生しないので冷光と呼びますが、電球でも、熱くなる白熱灯に比べて、さほど熱くならないのが蛍光灯、なるほどです。(笑)」
ふりしきる雪の様な 蛍・蛍・蛍
光る風祭りの中
すべてがかすみ すべて終る
以前、さだまさしさんがコンサートで、おっしゃってましたが、風の無い夜に飛び交っている日本のホタルの速度が、秒速約50cmということです。
桜の花びらが、無風状態で散りゆく速度も、秒速50cm、雪がひらひらと舞う速度も、秒速50cm…と、いうことで、この速度が日本人の感性のリズムに合っているのかもしれないということでした。
ホタルの寿命は短く、成虫になってからは、飲まず食わずで、約2週間ほどらしいです。
自然界でそれくらいですから、捕まえると、環境が変わるからでしょうか、さらに短くなるようです。
子どもの頃、親戚がいる京都の宇治川近くで、ホタル狩りをさせてもらい、虫かごに、いっぱいホタルを入れて、蚊帳の中につるしてもらって、従兄弟たちと、それ見ながら眠ってしまったら、翌朝、大きな西瓜の種のようになって、死んでいました。
子ども心に、儚いホタルの命を哀れみ、逃してあげれば良かったかなと思いながら、近くの草むらに埋めてやりました。
「ホタルのお墓作ってんねん。お母ちゃんもお墓に入ってねんやろう。うちおばちゃんに聞いてん。お母ちゃん、もう死にはってお墓の中にいてるんやて。」
14歳の兄清太が、4歳の幼い妹の節子に隠していたはずの母親の死を、すでに節子が知っていたことがわかって、大粒の涙を落とすシーンです。
「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」
ホタルの死に重ね合わせて、母親の死を受けいれなければならない兄妹のすがたが、哀れであり、健気でもあり、あまりに痛々しい情景です。
天涯孤独となった清太が、節子のお骨を骨壷代わりに入れて抱きしめていたサクマ式ドロップの缶。
その缶は草むらに放られて、ホタルが…。
清太が死んだのは、昭和20年9月21日夜のこと。
野坂昭如さんの直木賞受賞作「火垂るの墓」を高畑勲監督がアニメ化し、宮崎駿監督の「となりのトトロ」と同時公開したのが、1988年(昭和63年)でした。
始まりがあれば終わりがあります。
出会いがあれば別れがあります。
点けた花火はつかのまに消えていきます。
篝火もやがて燃え尽きます。
蛍は死にます。
人も死んでいきます。
多くの夢や希望とともに…。
生あるものは、必ず死ぬ運命にあります。
これは厳然たる事実です。
だからこその、一期一会。
生あるものは、生ある限り、生あるもの同士、愛しみあうことが、だからこそたいせつなんだと思います。
「風の篝火」は、さだまさしさんの「夢供養」というアルバムに収録されていますが、「夢供養」というアルバムタイトルからして、いかにも、さだまさしさんらしさが出ていると思います。だからこそ名盤だと思います。
ちなみに、「夢供養」は「ゆめくよう」と読み、決して「むきょうよう」とは読まないでくださいというのか、さださんのトークです。(笑)
原曲のイメージを損なわないように、今回の「風の篝火」も、もちろんメインはギターのスリーフィンガー、そしてマリンバ、オカリナとストリングスで、少しせつなく、パーカーションで力強く、それなりに、仕上がったと思います。
行く夏を惜しみ、逝った人を送るために…。
思い切るというのも、また供養のひとつです。
それもまた残されたものの生き方のひとつなのです…。
(初稿2005.9 2012..9) |