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「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」
森鴎外と並んで、日本の近代文学を語る上で欠かすことのできない明治時代の文豪、夏目漱石の処女作にして、出世作ともいえる「我輩は猫である」という小説の有名な冒頭です。
おそらく青少年時代に、いわゆる宿題の読書感想文用として、読まされるようにして、読んだ記憶がある方も多いかもしれません。(笑)
さて、冒頭の文章は、クイズなんかにも出題されるほど、有名なんですが、それでは、最後の文章と結末がどうだったのか覚えていますか。
「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
興味本位でビールを飲んだ猫が、酔っ払って、誤って水がめに落ちて死ぬという結末でした。
事故であって自殺ではないのですが、最後のせりふなどは、まさに遺書めいたものであり、従容として死を受け入れているところなどは、猫として一生を終わらせたのが、もったいないくらいです。(笑)
ところで、明治時代に、現在の東京大学の前身の一つである旧制第一高等学校のエリート学生が、日光の華厳の滝で、次のような遺書を残して、18歳という若さで投身自殺しました。
巌頭之感
悠々なる哉天襄、遼々なる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす。 ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にしてつくす。 曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。 既に厳頭に立つに及んで、 胸中何等の不安あるなし。 始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。
この巌頭の吟を書いて自殺したのは、藤村操という、漱石が英語を担当していた教え子であり、自殺直前の授業中に、予習もしてこずに、ぼんやりとしていた藤村操を、漱石は叱責していました。
「打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。」
漱石は「吾輩は猫である」の中においても、この自殺事件について、さらっと触れていますが、内心においては、かなり複雑なものもあったのでしょう。
後年の漱石研究においては、この自殺事件が、漱石のトラウマとなって、うつ病的体質を悪化させたのではないか、としているものもあります。
夏目漱石は、1867年(慶応3年)江戸牛込馬場下横町に生まれ、本名は夏目金之助。
東大卒業後、松山中学、第一高等学校などの教職を歴任し「吾輩は猫である」に続き、「坊ちゃん」「草枕」を発表、教職を辞して、朝日新聞社に入社後は、「虞美人草」を発表し、神経衰弱や胃病に苦しみながら、三部作といわれる「三四郎」「それから」「門」、そして「彼岸過迄」「こころ」「道草」などを発表。
1916年(大正5年)12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠しました。
享年49歳でした。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
「草枕」−夏目漱石
どっしりと 尻を据えたる 南瓜かな
野菊一輪 手帳の中に 挟みたり
行けど萩 行けど薄の 原広し
夏目漱石
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかの力をかりて
時にはだれかにしがみついて
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
「が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」と書いたのは、夏目漱石を師と仰ぎ、漱石も絶賛して推挙し、期待を寄せた芥川龍之介です。
芥川龍之介は、1892年(明治25年)東京に生まれ、生後八ヵ月の時、実母フクが突然、精神に異常をきたして、養子に出されました。
この実母の発狂という事実は、龍之介の生涯にわたって暗い影を落として、龍之介の作品の中にも大きく影響しています。
少年時代は龍之助と名乗り、後年は戸籍名どおりに、龍之介と名乗ったということです。
東大在学中に、同人誌「新思潮」に参加して創作活動を始め、1915年(大正4年)に「羅生門」を発表し、翌年の「鼻」で夏目漱石に認められ、文壇に登場します。
「蜘蛛の糸」「地獄変」「邪宗門」「杜子春」「藪の中」など、説話などの古典を題材にしたり、参考にして、 若くして文壇を代表する作家となります。
師の漱石と同じように、教師を辞してから、大阪毎日新聞社に入社、執筆活動を続けますが、激しい神経衰弱に悩まされ、「河童」「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」などを書いて、1927年(昭和2年)睡眠薬で服毒自殺しました。
享年35歳でした。
人生は地獄よりも地獄的である。
人生は一箱のマッチに似ている。
重大に扱うのはばかばかしい。
重大に扱わねば危険である。
「侏儒の言葉」−芥川龍之介
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかをあざ笑って
時にはだれかにおびやかされて
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊東部方面総監室において、総監を監禁し、憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた事件が起こりました。
しかし、自衛隊を正規の軍隊にしようとする憲法改正の檄文の呼びかけに、自衛隊からの同調者も、決起者もなく、反対に非難を浴びたり、揶揄や嘲笑されたりして、首謀者は、割腹自殺をしました。
盾の会会長の三島由紀夫でした。
享年45歳でした。
三島由紀夫は、1925年(大正14年)東京都に生まれ、平民の出自ながら、当時華族中心の学習院初等科、中等科、高等科から東大への道を進みます。
独特の唯美主義的な作風は、「仮面の告白」「金閣寺」「潮騒」などの有名な著作にも現れています。
そして、その二年後に、三島由紀夫と師弟関係のような親交のあった、日本的美意識を追求し続けた著名な作家もガス自殺をします。
我が国初のノーベル文学賞受賞作家、「伊豆の踊子」「雪国」など、美しい日本を描いた川端康成でした。
享年72歳でした。
ちなみに、「斜陽」で戦後の華族の没落を描いたために、華族への憧れの強かった三島由紀夫が嫌った作家、太宰治も、1948年(昭和23年)玉川上水にて入水自殺しています。
享年39歳でした。
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかにうらぎられて
時にはだれかと手をとりあって
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
「私と小鳥と鈴と」−金子みすゞ
朝焼け小焼だ 大漁だ
大羽鰮(いわし)の 大漁だ。
浜は祭りの ようだけど
海のなかでは 何萬の
鰮のとむらい するだろう
「大漁」−金子みすゞ
うちのだりあの咲いた日に
酒屋のクロは死にました。
おもてであそぶわたしらを、
いつでも、おこるおばさんが、
おろおろ泣いて居りました。
その日、學校でそのことを
おもしろそうに、話してて、
ふつとさみしくなりました。
「犬」−金子みすゞ
金子みすゞは、1903年(明治36年)年山口県に生まれ、すでに二十歳の頃には、「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」の四誌に投稿した詩が一斉に掲載されるなどの、めざましい活躍をします。
「童話」の選者であり、我が国の童謡、歌謡曲の著名な作詞家として、社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長もつとめた西條八十をして、「若き童謡詩人の中の巨星」といわしめるほどでした。
しかし、その後の不遇な結婚生活を経て、1930年(昭和5年)に服毒自殺しました。
享年26歳でした。
わたしにはわたしの生き方がある
それはおそらく自分というものを
知るところから始まるものでしょう
平成10年(1998年)に、我が国の自殺者は年間3万人台を超えて、年次によって、多少の増減はあるものの増加の傾向にあります。
それも50歳以上の中高年の自殺が顕著です。
自殺の原因としては、経済的な労苦、家庭生活の脆弱性、健康への不安などに加えて、近年の社会経済情勢の変化に伴うリストラなどの雇用や労働環境の変化などがあげられていますが、さまざまな要因が複合的に複雑にからまっているとみるべきでしょう。
自殺をする人は、なんのために生きるのかを問い、そして、その生き方の価値にまで踏み込んで問い続ける、極めて真面目な方が多いと思います。
でも、反面、融通の効かない頑固さや、一途さ、偏屈さ、不器用な律儀さがあるように思われ、まるで、マスター(館長)は鏡を見ているようで、自己批判しているような気持ちすらしてきます。(笑)
価値には絶対的な価値と相対的な価値があります。
しあわせはじぶんのこころがきめる
相田みつを
若いときは、こんな言い方は嫌いでした。
それは単に自己満足に過ぎず、自慰的行為みたいで嫌いでした。
でも、多くの人の生き方、生きざまを見てきました。
そして、たとえ自己満足であっても、自己が満足すれば、それはそれで、いいのかもしれない、という考え方に近づいてきました。
人がなんといおうと、自分には自分の生き方がある。
自分の生き方しかできない。
それが、人には、つまらぬ、とるに足らないものであったとしても、それが自分なんだから。
けれど それにしたって
どこで どう変ってしまうか
そうです わからないまま生きてゆく
明日からの そんなわたしです
もちろん陳腐貧相なプライドも捨てきれず、毀誉褒貶に翻弄される日々は、まだまだ続くでしょう。
でも、父親が早くに亡くなって、また師匠となるべき人たちとも早くに死に別れ、そして多くの友人、知人の早すぎる死にもあってきました。
ただ言えるのは、死んで花実が咲くものか、死ぬ者貧乏、死ねば死に損生くれば生き得、生きてるだけで丸儲け、そういうふうにぼくは考えたいと思います。
死に急ぐことはない。
もし、いま死にたいと考えている人がいるなら、こう考えてほしいのです。
今日まで生きてきたんだから、ついでに明日くらい生きてみようかって。
そして、明日になったら、今日まで生きてきたんだから、ついでにまた明日くらい生きてみようかって。
また、明日になったら、今日まで生きてきたんだから、おまけに明日くらい生きてみようかって。
そうこうしているうちに、心配せんでも、いつのまにか、どんなに明日がきてほしくても、明日がこない日がやってくるんやから。
きっと、そう遠くない明日やで。(笑)
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
吉田拓郎さん、1946年(昭和21年)4月5日、鹿児島県生まれ、血液型A型、9歳のときに広島に転居して、県立広島皆実高校、広島商科大学(現広島修道大学)卒。
70年(昭和45年)に上京し、同年「イメージの詩」でデビュー、72年「結婚しようよ」が大ヒットしました。
この曲は、ファーストアルバム「青春の詩」に収録され、シングルカットもされています。
フォークギターを持った人なら、誰でも一度は挑戦したでしょうが、ハマリング奏法とカーターファミリー奏法の練習曲には最適の曲でしたね。
まあ、うまく弾けたかは別問題。(笑)
吉田拓郎さん、肺がんという大病のあとに復帰し、また精力的に活動されていると思ったら、今度は「うつ病と診断され、抗うつ剤を飲んでいた。」時期もあったともおっしゃってました。
うつ病は、治療を受ければ必ず治る病気で、治療の基本は、薬物療法と十分な休息をとること、適切な治療を早期に行えば、回復も早く、悪化すれば長期化して回復困難となり、自殺のおそれも強くなります。
この曲は、直接的な応援メッセージのようなフレーズは一行たりともありません。
相手にどうしろとはいいません。
わたしはどうした、どうしようと思っていると、淡々と語っているだけです。
しかし、拓郎さんのこうした生きざまを見ていると、この歌詞に内包された、生きるということ、明日からもこうして生きて行くだろうと、ということを実践しているのが分かり、改めて敬服する次第です。
(初稿2005.10 未改訂)
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