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「嵯峨野さやさや」―たんぽぽ

   京都嵯峨野の直指庵
   旅のノートに恋の文字
   どれも私によく似てる

興福寺というお寺をご存知でしょうか。

関西に住む者にとって、興福寺といえば、まずは奈良の興福寺を思い浮かべることが多いと思います。

     菊の香や奈良には古き仏達  松尾芭蕉

春日山から飛火野をめぐり、一ノ鳥居を抜けて、やがて見えてくるのが興福寺の五重塔。

あるいは、お水取りの修二会で有名な東大寺二月堂から、大仏殿の大仏さんの微笑に会って、奈良公園で鹿とたわむれて、たどりつくのが興福寺です。

JR奈良駅や、近鉄奈良駅にも近く、東大寺と並んで奈良観光のシンボル的な存在です。

ところが、もうひとつ有名な興福寺があります。

長崎の興福寺です。

崇福寺・福済寺と並び長崎三福寺と称される長崎の興福寺は、唐寺(とうでら)と呼ばれる極彩色の弁柄(べんがら)、色漆喰(いろしっくい)で装い、日本寺院とはやや趣を異にする中国様式の禅寺です。

唐人屋敷門や三江会所門、東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに、日本三聖堂のひとつである長崎聖堂(中島聖堂)も、長崎の興福寺にあります。

さて、江戸初期に、この興福寺に、明時代の中国、福建省にある黄檗山万福寺の住職で高僧の隠元(いんげん)禅師が招かれて渡来します。

ちなみに、インゲン豆(三度豆)は、諸説がありますが、この隠元禅師が、普茶料理(精進料理)の食材として、あるいは飢饉に備える保存食として、中国から持ち込んだことが名前の由来とも言われています。

隠元禅師は興福寺にて多くの弟子を育成するとともに、その後、江戸幕府将軍徳川家綱に謁見して、京都宇治において、黄檗山万福寺を開きます。

話しは、延々長々と、奈良から長崎、中国へと飛んで、いったい、どこへいくのやらと思いきや、やはり、京都に戻ってきました。(笑)

というのも、ぼくの姉の夫、つまりは義兄の実家の菩提寺が長崎の興福寺で、義兄に精霊流しに連れて行ってもらった折りに、長崎式のお墓参りで参詣したことがありますし、またぼくの母親の姉、つまりは伯母が宇治黄檗の万福寺のそばに住んでいて子どもの頃からなじみのある寺であったという、多少の縁、他生の縁をたどって、改めて調べてみた結果です。

ということで、さらに、結局、どうつながるか。(笑)

その万福寺隠元禅師の高弟である独照性円が隠栖したときに竹林の中に結んだ草庵があります。

それが京都嵯峨野の直指庵(じきしあん)です。

まあ、結局、世の中みな親戚筋かな。(笑)

さて、直指庵は、一時期は隆盛しますが、やがて衰微し、長く荒れ果て、幕末の頃、明治維新に功績を残す近衛家老女の村岡の局、津崎矩子によって浄土宗寺院として復興します。

     窓近き竹の林は朝夕に
     心をみがく種とこそなれ   津崎矩子 

ところで、直指庵の直指とは、禅の教えである「直指人心(じきしにんしん)」に由来します。

「直指人心」は、「直ちに人の心を指す」ということで、
人の心の中には、もともと仏心が具わっているのだから、「自分の心が仏心にほかならない」と指し示す直指が、ただちに仏の悟りへの道であるというのです。

座禅行などは、そのための禅宗の修行ですが、現在の直指庵は、禅宗から浄土宗に宗旨替えしたこともあり、また尼寺ということもあって、座禅などはなく、かわって直指庵で有名なのは「想い出草」です。

「想い出草」とは、直指庵に置いてある来訪者が読み書き自由にできるノートで、はじめは参拝者が寺の壁や竹林へ落書きすることに悩んだ庵主が、落書きならばノートにしてほしいと置いたのだそうです。

それが、いつしか、直指庵を訪れる女性たちが主として恋の悩みや想い出を書き綴っていくような現在のかたちになったのだそうです。

ノートは、他愛のない旅の足跡のほか、多くは恋愛話で占められていますが、内容的には、意外に軽い書き込みも多くて、深刻な失恋、悲恋物語を期待する向きには落胆することも多い反面、案外、人って強く生きれるもんだなと、安堵したりもします。

えっ、なんで、ぼくがそんなに直指庵の「想い出草」を詳しく知っているのかって?

そ、それは、ぼくの心の中の「想い出草」にだけ、書いて納めてありますので。(笑)

まあ、その「想い出草」を読み書きしているうちに、なにか吹っ切れて、また歩き出そうという気になるのならば、それはひとつの仏の悟りの道へ近づくことになるのかもしれません。

   雨の落柿舎たんぼ道
   藪の茶店で書く手紙
   きのう別れたあの人に

     里ふりて柿の木もたぬ家もなし  松尾芭蕉

落柿舎(らくししゃ)というのは、嵯峨野の中心にあり、俳聖松尾芭蕉の門下(蕉門)十哲のひとりである、向井去来の別邸でした。

落柿舎という名前は、庭にある柿の木を、ある商人が立木のままで買い入れを決めて代金を置いて帰ったその夜、台風で柿の実が全部落ちてしまい、困窮した商人に、売主である去来が全額を返金してあげたことから、名付けられたのだそうです。

     柿ぬしや木ずゑは近きあらし山  向井去来

去来は長崎の儒医の子として生まれ、京都にのぼり芭蕉に師事して、温厚篤実な人柄で蕉門をまとめ、後世の芭蕉研究の最高の書として評価される芭蕉俳論の集大成「去来抄」を残しました。

芭蕉は1691年(元禄4年)、48歳のときに落柿舎に滞在して、「嵯峨日記」を書いたといわれています。

落柿舎には、入り口に、次のような落柿舎制札が掲示されています。

   一  我家の俳諧にあそぶべし
       世の中の理屈を謂ふべからず
   一  雑魚寝には心得あるべし
       大鼾をかくべからず
   一  朝夕堅く精進を思ふべし
       魚鳥を忌むにはあらず
   一  速に灰吹を棄つべし
       たばこを嫌ふにはあらず
   一  隣の据膳をまつべし
       火の用心にはあらず

           右條々 俳諧奉行 向井去来

この制札は、落柿舎での俳席で芭蕉が作ったとも、去来が作ったとも言われていますが、いずれにしろ、芭蕉俳諧の軽妙洒脱さを言い得て妙です。

     この道や行く人なしに秋の暮  松尾芭蕉

平明な言葉な言葉で、日常身辺のさりげない事象を描写しながら、かつ自然や人生への深みへ入っていくような俳諧の手法を、軽みといいます。

     秋深き隣は何をする人ぞ  松尾芭蕉

軽みを代表する有名な句ですが、この句は、芭蕉が死の病に伏す直前の句で、そのような体調悪化のときにおいても、森羅万象、人の世の人情の機微に興味尽きぬ芭蕉の姿勢が窺い知れる秀句です。

     旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  松尾芭蕉

そして、病に伏して、この句を残して、俳聖松尾芭蕉翁は、1694年(元禄7年)10月12日、大坂は南御堂前の花屋仁右衛門宅で亡くなります。
享年51歳でした。

そんな芭蕉を忍んで、毎年10月12日は有縁の各地で芭蕉忌が行われています。
芭蕉忌は、俳号、芭蕉庵桃青にちなみ、桃青忌とも、この季節にちなみ、時雨忌ともいわれます。

     旅人と我が名呼ばれん初時雨  松尾芭蕉

人生50年といわれた300年前の芭蕉の時代と、平均寿命が70年を超える現代とでは、比べるべくもありませんが、芭蕉の言うところの不易流行を持ち出すまでもなく、いずれにしろ、人は人生という、それぞれの旅をしている旅人に違いはないはずです。

そんな旅をする旅人ならば、降りだした時雨を愚痴るのではなく、天からのはなむけとして受け止めて、そして、枯野であっても夢をかけ廻らせることができるものだと信じて、旅を続けたいものです。

   朝の祗王寺苔の道
   心がわりをした人を
   責める涙がぬらすのか

「平家にあらずんば人にあらず」そして「驕る平家は久しからず」の文字通り、栄華の絶頂と没落の深淵を極め、平家物語の主題をなす、盛者必衰の理、栄枯盛衰のまさに体現者たる平清盛。

その平清盛に寵愛されていた白拍子(男装で歌舞を歌い踊る遊女)の祗王(ぎおう)は、若い白拍子の仏御前の出現によって清盛から見捨てられ、妹の祗女(ぎにょ)と母の刀自とともに嵯峨野に隠棲します。
この時、祗王21歳、祗女19歳、刀自45歳でした。

     萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草
     いづれか秋にあはで果つべき
                    「平家物語」

そして、清盛の仕打ちを見た17歳の仏御前も明日はわが身と無常を感じて出家し、祗王を訪ねます。

     仏も昔は凡夫なり我らもついには仏なり
     三身仏性具せる身を
     へだつるのみこそ悲しけれ
                    「平家物語」

祗王と仏御前は和解して、四人で後生を願って、念仏三昧に余生を送ったとのことです。

その祗王たちを弔っているのが嵯峨野にある祗王寺です。

しかし、祇王寺には、祗王たちのほかに、なぜか平清盛も一緒に祀られています。

もちろん、衆生皆平等、一切衆生済度の仏教の教えからは、悪業強き平清盛といえど、その成仏を願うのは当然の法理でしょう。

しかし、宗教的な理由より、むしろ、平清盛は桓武天皇の血統(桓武平氏)と言われ、壇ノ浦の戦いで崩御した安徳天皇(高倉天皇と清盛の娘の中宮徳子(後の建礼門院)の子)の祖父にもあたり、合祀は天皇制との兼ね合いもあったのかなと思います。

それにしても、祗王、祗女、その母親刀自、そして仏御前の四人の女性に囲まれ、死してなお平清盛が心変わり、裏切りを責められている格好となっているようで、男性としては、これじゃ地獄に落ちた方がましか…と同情を禁じえませんけどね。(笑)

   京都嵯峨野に吹く風は
   愛の言葉を笹舟に
   のせて心にしみとおる

嵯峨野はよく風がとおるところです。
落柿舎に滞在していた芭蕉は、嵯峨野の小督塚(おごうづか)を訪ねて、一句詠んでいます。

      嵐山藪の茂りや風の筋
                 「嵯峨日記−松尾芭蕉」

小督は、高倉天皇の寵愛を受けていた女房(侍女)ですが、平清盛の政略からすれば、高倉天皇と娘の中宮徳子の邪魔になる存在であり、これを察した小督は身を引き、嵯峨野に隠れ住むことになります。

高倉天皇は、これを悲しみ、小督を探し出して連れ戻しますが、また清盛らによって、引き裂かれます。
そんな悲恋物語もある嵯峨野の小督塚です。

嵯峨野は竹薮の多いところで、生い茂るその笹をゆるがせて風がとおっていきます。

笹の葉のように、複雑に入り組んだ人間模様。

嵯峨野に吹く風は、幾多の愛の物語を笹舟に乗せて、歴史という流れを下ってきたのです。

   嵯峨野 笹の葉さやさやと
   嵯峨野 笹の葉さやさやと 
   さやさやと



この歌を歌ったのは、たんぽぽという、宮村星子(保志子)さん、宮村三代の姉妹デュオで、現在は活動されていないようです。

京都レコード(ペップミュージック)というローカルなプロデュースにしては、意外にも、作詞は伊藤アキラさん、作曲は小林亜星さんです。

多分、関西ローカルなテレビCMなんでしょうが、活、染蔵という、着物販売を主とした企業のCMのBGMとして、「さやさやと〜 あぜ〜くら〜」というジングル付きで、いまもなお使われています。

(初稿2004.10 未改訂)


嵯峨野さやさや
作詞 伊藤アキラ
作曲 小林亜星

京都嵯峨野の直指庵 旅のノートに恋の文字
どれも私によく似てる
嵯峨野 笹の葉さやさやと
嵯峨野 笹の葉さやさやと

雨の落柿舎たんぼ道 藪の茶店で書く手紙
きのう別れたあの人に
京都嵯峨野の笹が鳴る
京都嵯峨野の笹が鳴る

朝の祗王寺苔の道 心がわりをした人を
責める涙がぬらすのか
嵯峨野 笹の葉さやさやと
嵯峨野 笹の葉さやさやと

京都嵯峨野に吹く風は 愛の言葉を笹舟に
のせて心にしみとおる
嵯峨野 笹の葉さやさやと
嵯峨野 笹の葉さやさやと 
さやさやと

1975年(昭和50年)
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