|
花はさかりに
月はくまなきをのみ 見るものかは
雨にむかひて 月を恋ひ
たれこめて 春のゆくへ知らぬも
なほあはれに 情け深し
咲きぬべきほどのこずゑ
散りしをれたる庭などこそ 見どころ多けれ
『徒然草』 吉田兼好
花は満開のときだけを、月は満月のとき
だけを、ながめてみるものだろうか。
雨の降る夜にかくれている月を想ったり、
御簾をおろして 春の行方を知らないのも
やはり趣き深いものである。
これから咲こうとしている梢を見あげたり、
あるいは、すっかり花が散ってしまった庭を
ながめるのも、また趣き深いものである。
…なぁ〜んてことをね、吉田の兼好法師さんは言いはりますけどね、でも、正直いうと、まだまだ蕾固しの花よりも、散りかけのヘナヘナになっている花よりも、凛として、匂うがごとく、今を盛りに咲いている花の方が、やはり、美しく綺麗で、見栄えがありますよね。
…って、あっ、ここで言うのは、禁句だっけ?(笑)
確かに、うん、これから咲こうとしている花の明日に想いをめぐらして、また、散り急ぐ花の姿に、募る想いを感じとるのも、確かに、風流でせう。(笑)
でも、やはり咲き誇る花に勝るものはありません。(笑)
世の中に 絶えて桜のなかりせば
春の心は のどけからまし
在原業平 『古今和歌集』
そうです。
どんなに、負け惜しみで、花はさかりに…なんていっても、やはり、花の色は移りにけりな…、ざぁ〜〜〜んねん。°°(>_<)°°。、なんてことぉね。(笑)
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
うき世になにか 久しかるべき
詠み人知らず 『伊勢物語』
もっとも、さかりを過ぎてしまっても、色褪せてしまっても、それがともかく、開いた花だったからこそ、いえるのでありまして、花だったのか、葉っぱだけだったのか、開かぬままのつぼみのままだったのか、どうだったか、わからない場合も、けっこう、ありますが…。(笑)
…って、あっ、ここで言うのは、禁句だっけ?(笑)
花びらが 散ったあとの
桜がとても 冷たくされるように
なんか我ながら、今回は、いきなり、キツイこと言うてるかなぁ〜って…、まぁ、いつものことか。(^^ゞ
しかし、葉桜という言葉があります。
花が散って、新緑の若葉になったころの桜です。
もちろん、花びらはとうに散って、見る影もないのですが、ぼくは、けっこう、この時期の桜が好きです。
散る桜 残る桜も 散る桜 伝 良寛和尚
いや、急に、手のひら返して、年長女性読者フォローしてる訳ではないのですけど…、そこの親父さん、うなづきながら、苦笑しないでね。(笑)
誰にも 心の片隅に
見せたくはないものが あるよね
ともかく、あの、初夏の日差しを浴びた葉桜の新緑を見ると、まるでスーとする胃薬を飲んだときのような清涼感があります…って漢方薬の効用書き。(笑)
でも、なによりも葉桜には使命があります。
桜は、葉を茂らせる夏を迎えるころに、翌年の春に咲く花の元になる花芽(かが)を作っています。
この花芽はそれ以上は成長することなく、休眠に入って、その後、秋から冬にかけて低温に一定期間さらされると休眠から覚めて、そして春先の気温の上昇と共に開花するのです。
葉の陰に隠れて、花は咲くときを待つのです。
だけど 人を愛したら
誰でも心のとびらを 閉め忘れては
傷つき そして傷つけて
ひきかえすことの出来ない 人生に気がつく
さて、恋人同士に限らなくとも、人は親しくなれば、心のとびらを開放して、相手を受容しようとします。
そして、また相手にも、心のとびらを開くように望んで、自分を受容するように求めます。
そうすることによって、そのお互いの距離を、縮めあおうとしていくのです。
しかし、その距離が、一定の距離内に入ると、思いもしない相手の心の中の棘が刺さって、驚くのです。
もちろん、相手だって、こちらの棘を感じています。
ただ、自分が相手に刺した棘の存在には無頓着で、相手が刺した棘ばかりが、意識されます。
人が「ふれあい」を求めようとするときに生じる、そう、これがいわゆる、「ヤマアラシのジレンマ」です。
しかし、心のとびらというものは、そんなに自由自在に、開け閉めができるものではありません。
傷つきながら、傷つけていく、このアンビバレント(両面性)な関係は、ときとして、潜在的な怖れとなって、深く心の底に沈んで、心のとびらを、まったくの「開かずの門」にしてしまうことだってあるのです。
人にはやはり、友達同士、恋人同士、夫婦同士、親子・兄弟姉妹といった、とくに親密な人間関係においても、一定の不可侵にしたい領域があります。
子育てをした経験のある方なら、子どもが乳児期から幼児期への過渡期、オムツが取れるかどうかくらいの時期のときに、親がそばにいくと、妙に神妙な顔をして、「あっちにいって〜」って、親を寄せ付けない自立の時期を感じたことがあるでしょう。
…で、たいがい、そのあと、そばに来て、「ウンチ出たよ〜〜〜」って、ことになるのですが…、それもいつもパンツの中にされる…って、いわゆるトイレ・トレーニングの苦労話については、散り初めの育児ママさんサイトに譲ります。(笑)
しかし、この時期のことを、精神分析学の創始者フロイト(Sigmund Freud)は、肛門期と位置づけて、人格形成の大きな要因になるとしています。
確かに、人が生まれてはじめて経験する、個室空間というものが、トイレということになります。
「そうよね、たまには子どもを気にせず、トイレのドアを閉めて、個室でゆっくりしたいわぁ〜。」という便秘気味の育児ママさんのグチ話については、散り初めの育児ママさんサイトに譲ります。(笑)
さて、人には、他の人に入ってきてもらいたくない場所、空間、縄張りみたいなものが、その広さ、狭さは各人によって異なっても、必ず存在します。
これを、パーソナル・スペース(個人空間)といいますが、その互いの物理的な距離はまた、心理的な距離と相関関係にあります。
この互いのパーソナル・スペースをどうとらえて、どう考えて、どう扱うかによって、良好な人間関係が築けるかどうかの分かれ目にもなります。
やさしかった 恋人達よ
ふり返るのは やめよう
時の流れを 背中で感じて
夕焼けに 涙すればいい
つまりは、この心理的なパーソナル・スペースの入り口が、心のとびらと言えそうですが、考えてみれば、心のとびらを開いたからこそ、相手から、得るものも大きかったはずです。
心のとびらを開いたからこそ、相手に対して、惜しみなく与えられたものも少なく無いはずです。
閉ざされた心のとびらでは、傷つきはしなくとも、なにの交流も進歩もありませんから。
しかし、心のとびらを開くには、勇気がいります。
そして、勇気以上に、また、やさしさが必要です。
傷つけられたとしても、それを決して後悔しない勇気と、傷つけられたとしても、それを許容するやさしさ。
桜花散りぬる風のなごりには
水なき空に波ぞ立ちける
紀貫之 『古今和歌集』
風さそふ花よりもなお我はまた
春の名残をいかにとやせむ
浅野内匠頭 『仮名手本忠臣蔵』
散ってしまった桜の花びらは、ふたたび同じ枝には戻れません…、沈んでしまった夕陽は、けっして同じ場所からは昇っては来ません…。
それが真実ですから、ふり返るというののは、結局は、ただ感傷(sentimentalism)に過ぎないのかもしれません。
ただし、やはり、めぐり来る季節のなかでは、同じ枝ではなくても、ふたたび花が咲くこと、ときの過ぎ行くままに違う場所から、ふたたび陽が昇ること、それは信じてもいいのではないでしょうか。
誰かを 愛したその日には
たとえば ちっぽけな絵葉書にも心が動き
愛をなくしたその日には
街角の唄にも ふと足を止めたりする
ほんのささやかなものにも、悦びを感じるというのは、感受性が豊かであるということです。
しかし、涙もろくて悲哀の感情に動かされやすいのも豊かな感受性がなせるわざですから、その感受性はガラス細工のように、わずかなことで傷つき壊れやすい諸刃の剣と言えそうです。
風よ 季節の訪れを
告げたら 淋しい人の心に吹け
そして めぐる季節よ
その愛を拾って 終わりのない物語を作れ
そう、Never ending story…終わりのない物語。
でも、それは、あくまでファンタジー(Fantasy)の世界のことであって、それこそ、Neverlandの住人でない限りは、それは単なる夢物語に過ぎません。
始まりがあれば、終わりがあるのが物語です。
でも、やはり、季節はめぐります。
ひとつの季節が終わり、そしてまた、違うけれどひとつの季節が始まります。
それぞれの季節に、それぞれの物語。
そう…、そういう意味であれば、やはり、Never ending story…終わりのない物語かもしれません。
やさしかった 恋人達よ
ささやかな この人生を
喜びとか 悲しみとかの
言葉で決めて 欲しくはない
悠久のときの流れの中では、刹那ともいえるささやかな人生のなかで、いまをさかりに咲く花に狂喜して、散りゆく花の無常を惜しんで悲しむ、そんな喜怒哀楽に翻弄されていくのも、やはり人の性(さが)です。
嬉しいことに、人として生まれ、悲しいことに、人として生まれたわたしたち。
でも、言えることは、人として、その人生を歩んでいかなければならないということです。
そして、喜びだけの人生であるとか、悲しみだけの人生であるとか、そんなひとつの言葉だけで決めつけられるような人生は、どんな人の人生の場合であっても、決してないということなのです。
花は花として 笑いもできる
人は人として 涙も流す
それが自然の うたなのさ
心の中に 心の中に
花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か
いつの日か 花を咲かそうよ
花(すべての人の心に花を) 喜納昌吉
そう、めぐり来る季節のなかで…、
そう、ささやかなこの人生のなかで…、
またいつの日か 花を咲かせましょう…。
元かぐや姫の伊勢正三さんと、元猫の大久保一久さんの二人で結成していたのが「風」です。
「風」のサウンドは、解散までの間に少しずつ変遷していきますが、伊勢正三さん、こと、正やんの切なくも淡々とした歌い方の中に、地味ながらも力強く、ストーリーとメッセージをこめているのが、「風」の一貫した特徴だったかなと思います。
(初稿2004.4 未改訂) |