|
ざわわ ざわわ ざわわ
広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が 通りぬけるだけ
この歌が制作されたのは1967年、そして、森山良子さんがレコーディングされたのは、1969年でした。
その年は、沖縄返還に関する日米共同声明が発表され、そして、その二年後の1971年に、日米沖縄返還協定が調印され、翌1972年に、ようやく、沖縄はアメリカから日本に返還されました。
その間の1970年には、大阪万国博覧会が開幕し、その中で開催されたフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲は、「戦争を知らない子供たち」。
その司会を務めた北山修さんのメッセージは、「ぼくたちが、戦争を知らない子供たちというだけではなく、ぼくたちの子供たちが…、その子供たちが、戦争を知らない子供たちだといえるようにしたい…(趣意)」というものでした。
ぼくの世代、昭和30年代生まれは、ちょうど昭和31年の経済白書が声高に叫んだ「もはや戦後ではない」という世代であり、「戦争を知らない子供たち」の世代というよりも、もはや戦争とは、無縁の世代と思われています。
でも、ぼくがまだ子供だった頃は、大阪城の東側に位置する今の大阪ビジネスパーク(OBP)の場所は、軍事関連施設のレンガの建物の焼け跡に、雑草の生い茂る荒地であり、そこが遊び場でした。
いや、なにより、ぼくの父親は、第二次世界大戦の頃、中国の上海駐留の兵士として召集され、まもなく銃撃戦により足を負傷して、その後、後方部隊の衛生兵(看護兵)となったために、最前線に派兵されることなく、終戦を迎えて、一命を取り留めました。
しかし、ぼくの父親の兄、つまり、ぼくの伯父さんは、昭和20年3月の沖縄戦で戦死しています。
もちろん、ぼくは、その伯父さんのことを知りません。
ぼくの母親ですら、父と結婚する前の話であり、会ってはいないそうです。
父親から聞いたという母親の話では、その伯父さんには、朝鮮人の恋人がいたそうです。
そして、子供が生まれたものの、当時、植民地であった朝鮮への偏見・差別もあったのでしょうか、周囲から結婚を猛反対されて、別れさせられて、そして激戦地の沖縄へ赴いていったそうです。
叔父さんの恋人と、ぼくから見れば従姉妹となるはずの、その子供の行方と生死は、戦後の混乱期に、分からなくなったといいます。
それから半世紀近くを経て、沖縄を観光旅行した母親が、その沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘にある平和の礎を訪れ、まったく偶然にして、その伯父さんの名前が刻まれているのを見い出して、妙に胸が熱くなったといいます。
もちろん、戦争当時の母親も、被服工廠という軍需工場で働かされており、昭和20年3月の大阪大空襲で焼け出された戦争体験者です。
8月15日は終戦記念日…、よく、お国のために死んだのだ…と言いますが、決して、戦没者たちは、国家を守るために死んだのではありません。
その国に住んでいる愛すべき妻子や家族を守るためだと信じて、死んでいったのだと思います。
戦没者追悼ということを美名の免罪符にして、また政治的に戦没者遺家族たちの票を得るがために、あるいは人気取りのために、かっての軍国主義時代の戦没者追悼のための宗教施設への公式参拝に、姑息に固執し、強行する政治家たちがいます。
戦没者たちは、一部の軍国主義者たちや政治家たち、財界人たちの、栄誉と打算と利害の犠牲となったことを、決して忘れてはならないと思います。
また、戦場での戦死者、戦没者だけではなく、沖縄をはじめ、東京や大阪、広島、長崎などでは、一般の市民が、戦略爆撃、無差別攻撃にさらされて、多くの命が失われました。
このことも決して忘れてはならないと思います。
そして、いまなお、地球上のどこかで、戦争が続いている地域があって、やはり悲しみの血の涙を流している多くの人たちがいることも、決して忘れてはならないと思います…。
夏草に 往事のいくさ 偲ぶれど
空蝉ぽつんと 水に流るる 路夢
この歌は、当初公開されたときは、全体が半分くらいにカットされていたように思います。
そして、1975年に、NHK「みんなの歌」でちあきなおみさんが歌ったのも、省略バージョンだったような気がします。
最近になって、ようやく「ざわわ」というフレーズが66回繰り返される、フルバージョンの歌を聞くことができるようになりました。
もちろん、森山良子さんのもいいけれど、沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉さんのアカペラバージョンもいいと思います。
残念ながら、フルバージョンでは、10分近くになるため、ここでは省略バージョンといたしました。
この歌の雰囲気と、そして、この歌の歌詞の意味を、感じ取っていただければ幸いです。
(初稿2002.8 2004.8改訂) |