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世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする
「せやから、高校生らしい服装と、と書いてあるとおりでええやん。その何が問題なん。あんたらは、さっきから、反対のための反対をしてるだけとちゃうの。」
生徒会長は、答弁の繰り返しに、業をにやしたかのように語気を強めた。
「異議なぁ〜し〜、せや、せや、おまえら、はよ帰れ、帰れ。」
どこからか、生徒会長を援護射撃するかのようなヤジが飛んだ。
2年生の代議員からの議案に対する執拗な質疑に対して、服装の自由化の承認決議を早く採決したいとする生徒会の執行部役員たちは苛立っていた。
追い打ちをかけるように、立ち合いの生徒会顧問の教師が発言した。
「執行部は議案を丁寧に説明すること、制服も標準服として残し、私服を強制するものではないこと、私服についても高校生らしい節度ある服装を守るという、職員会議ならびにPTA、及び生徒会とのこれまでの合意事項もきちんと説明しなあかんやろ。」
顧問教師からの指摘に、さらに執行部は苛立った。
議長が質疑を打ち切り、採決したいと発言したことに対して、また教師が発言した。
「今年入学の新入生諸君は、我が校の制服廃止の件は入学説明会で聞いていると思うが、生徒会では最終的に、今年入学する新入生の意見を聞いてから実施することにしたから、上級生たちに遠慮せずに、1年生はぜひ意見を述べてほしい。」
面目をつぶされた議長が教師に向かって、大声で怒鳴った。
「発言は議長の許可をとってからちゃうのん。それが会議のルールいうてたやろ。」
しかし、生活指導担当も兼ねる教師は臆することなく、議長を睨み返して、睨まれた議長はさらに言い返そうとしたが、生徒会長が手で合図して議長を制止した。
生徒会規約には、顧問教師が生徒会活動について指導と助言をすることが明記されていることが、先ほどの2年生の代議員の質疑のときにも確認されていたからだ。
1970年前後の大学の学生運動、全共闘運動が、都市部の高校にまで波及し、大阪の公立のM高校も、全国的には珍しい高校紛争のひとつの拠点校になっていた。
しかし、もともとは公立の高等女学校だった歴史を持つM高校は、同窓会組織やPTA組織も強くて、地域的には賑やかな商業地に立地され、しかも大阪有数の華やかな繁華街の近くにありながら、総じては、おとなしく保守的な校風だった。
もっとも、一方では、学校組織としては、当時、日本教職員組合(日教組)に属する教職員も多く、しかも、のちに日教組から離脱し全日本教職員組合(全教)を結成する、日本共産党系の日教組反主流派が多数派を占め、いわゆる「民主的」な学校運営をしていた。
その影響もあって、かっては、生徒会活動も、共産党系である日本民主青年同盟(民青)に所属する生徒が中心となり、生徒会も生徒自治会と呼ばれるほどに活発なものだったらしいが、やがて学生運動の先鋭化や過激化に伴い、共産党と対立する、いわゆる反代々木系全学連に属する全共闘系の生徒たちに牛耳られていった。
もっとも、M高校で服装の自由化が実施される頃には、全国的に学生運動も学園紛争も下火となっており、一部が過激化していったが、全体的には沈静化していった頃だった。
変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする
後年、団塊の世代と呼ばれる世代になる学生運動の主力世代の後続世代は、政治や世相などへの関心が薄く、冷静というよりも興味を示さずに、傍観者的立場の、いわゆる、無気力・無関心・無責任の三無主義のしらけ世代と呼ばれる世代に交代する頃でもあった。
M高校の生徒会の構成員は、会長などの執行部役員は立候補者の中から全校生徒の直接選挙で選ばれ、代議員は各学年の各クラスの選挙で選ばれた学級委員長だった。
しかも、学級委員長は、1年生の前期は、クラスの成績上位者から担任教師の推薦で事実上決定される慣行となっていたから、1年生代議員の多くは、特に生徒会活動に興味があったわけでもなく、また場馴れもしておらず、ただ傍聴しているような感じだった。
「それでは、教師のご要望です、1年生代議員諸君、なにか意見はありませんか。」
議長は、顧問教師をちらっと見て、1年生の代議員たちに嫌味がちに発言を求めた。
求められても、1年生は、ほとんどが目をそらして、うつむいたままだった。
議長は不敵な笑みを浮かべ、教師を一瞥して、宣言するように言った。
「なければ、第1号議案服装の自由化承認について、採決に移ります。」
そのとき、ひとりの1年生の男子生徒が、遠慮がちに、おすおずと手を挙げた。
しかし、議長はそれを見て見ぬ振りをして、採決を強行しようとした。
教師がその議長を制して、1年生の彼に、直接、発言を求めた。
彼がおそるおそる発言しようとしたとき、議長は叫んだ。
「代議員も教師も無断で発言しない。発言許可と議事進行は議長の専権事項や。」
恫喝めいた言辞に、彼はたじろぎ、その彼を見た教師は、議長に怒鳴り返した。
「これは議長の議事進行の幼稚さを補助する顧問教師の助言指導やぞ。発言を求める者を無視するのは認められん。それに従えないなら、この会議は無効、流会にする。」
教師と議長の怒鳴りあいの応酬後にマイクを渡された彼は、戸惑いがちながら、生徒会長に質問した。
「あのう、校則では、登校時は校章と名札を着用すると書いているんですが、服装が自由化されて、自由な服装になっても、私服でも、校章と名札は必要なんでしょうか。着用しないと校則違反になるんですか。」
彼は議案の資料を見ながら、ぎこちなく質問をした。
生徒会長は彼に苦笑いを返しながら答弁した。
「そうです、書いてあるとおりですよ、何か問題がありますか。」
「いや…、問題ということではなく…、ただ服装が自由化されて、私服では、校章と名札を付けるところがないし、校則を守るのは難しいんじゃないかと思うんですが。」
生徒会長は教師を意識しながら、さらに笑みを浮かべて答えた。
「職員会議とPTAから、服装は自由とするが、校章と名札を着用して、M高校生と分かるようにするとの合意があります。つまり、高校生らしい服装にしなさいということですよね。」
先ほど質問した2年生の代議員の方を苦笑いしながら見て、生徒会長は続けた。
「君の言うことはわかります。しかし、校則を守れるかどうか、やってみないと分からない。先ほどからの高校生らしい服装は、という議論も、実際、やってみないと分からない。そのときに、校則の改正が必要なら、また議論したらええんちゃうかな。まずは服装の自由化を決めことが先決やないかと思うんや。君は自由化に反対の意見なんかな。」
確かに、彼も、学級のホームルームで、自由化賛成の意見が多数なのは確認している。
そして、彼自身も、高校入試に失敗して、志望校でなかったこの高校を選んだのは、この高校が家から比較的近く、また近々、服装が自由化されると聞いていたからだった。
だから、暫定的に着用している中学時代の制服は、早く脱ぎたかったし、また、私服を着たら、できればM高校の蔦の葉をイメージした丸みのある三角形の校章も、垂れ下がる名札も、できれば外したかったのが本音だった。
それはともかくとして、建前としても、守れないような校則になるのが予測されるのなら、守れるような校則にしていくべきではないのかと、素直に彼は思っただけだった。
職員会議などの反対が強くても、生徒会としては、校章も名札についても、きちんと議論すべきで、その意味では、さきほどの民青に所属する2年生の代議員の、高校生らしい服装とはなにを指すかと問う発言は、めんどくさいが正論かなとも思った。
しかし、たかが高校の校則や制服のこと、それを守るべきと生徒会が認めるなら、仕方ないかとも思い直し、少し首を傾げて、そのまま彼は発言しないまま、マイクを返した。
そして、結局、彼は賛成に挙手をした。
満場一致ではなかったが、代議員の3分の2以上が賛成した。
そして、M高校の服装の自由化が確定して、夏服から実施されることになった。
世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている
議場の講堂を出た彼に、さきほどの2年生の代議員の男子が彼に声をかけてきた。
小柄ながら詰襟姿の制服が似合う、時代遅れの好青年といった感じだった。
ふたりは、社会研究会、いわゆる社研という部活動で面識があった。
2年生の彼は、社研の部長をしており、1年生の彼は、担任の教師や社会科教科担任からの薦めもあって、また中学時代に、社会科研究部に在籍していたこともあったから、深い意味もなく、M高校の社研の入部ガイダンスを受けていた。
しかし、M高校の社研は、当時、多くの大学や高校にあった社研のように、社会科教科の研究ではなくて、社会・労働関係の研究や、社会科学の研究活動をする部活であり、つまりは、科学的社会主義ことマルクス主義の左翼的な研究会であった。
当時、M高校の社研は、民青系の部員で占められ、入部ガイダンスでは、フォークギターで「若者たち」や「戦争を知らない子供たち」を合唱するという温和なものだったが、部活で話される内容は、雰囲気がすでに党派的だったために、彼は入部を保留していた。
2年生の彼は、1年生の彼に、生徒会での彼の発言が反執行部とみられたこと、そして執行部は、NON連に属する、暴力的な過激派の集団だから注意するようにと助言した。
NON連というのは、ノンセクト連合の略で、社会や政治に関心を持つ生徒が、ノンセクト(non-sect)、党派を組まない、または属さない、あるいは党派を超えて連合するというほどの意味で、大学の全学共闘会議(全共闘)に相当するが、M高校では、○○派などの単一のセクトを組めない、あるいは組まないものたちが、NON連と称して、共産党系の教職員や民青系の生徒たちと、対立していた。
校舎の地下にある生徒会執行部室は、とびらに白いペンキで自治会BOXと書かれ、その付近には、安保粉砕、中教審路線反対、日帝粉砕、世界革命などと書かれた新左翼のスローガンが書かれた使い古しの立て看板が無造作に並んでいた。
入り口あたりには、当時、学生運動の象徴であった赤や青のヘルメットに赤軍や社青同などと書かれてあったり、そしてそれを塗りつぶした黒いヘルメットや角材の残骸がほこりまみれに置かれてあり、何かしら異様な雰囲気があった。
確かに、彼が入学する数年前には、M高校の近くの公立高校では、激しい高校紛争があり、当時、いくつかの大学がしていたのと同じく、全校バリケード封鎖を敢行したことが報じられていたから、それに呼応するような動きがM高校にもあったのかもしれない。
学生運動の「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンを、彼は気に入ってたが、実際は社会で孤立化を深めている学生運動には失望して、興味も関心も失せていた。
包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる
結局、彼は、社研に入部しなかった。
社研の顧問は担任と、社会科の教科担任である二人の女性教師で、彼女たちは、成績がトップクラスでしかも社会教科が得意な彼を目にかけてくれていたが、二人とも教職員組合の幹部役員であり、熱心な日本共産党の活動家であるということも聞いていた。
彼も決して日本共産党を嫌悪はしておらず、日本共産党の主義主張や活動については、一定のシンパシーを持ち、共鳴、共感するところも大いにあったが、何かにつけ、党派的に動かねばならないことには、やはり抵抗があった。
そして、結局、彼は逃れるように、誘われていた生物部と、映画研究部に入部した。
彼はセクトより、またノンセクトよりも、ノンポリ(non‐political)の道を模索した。
生物部は、中学時代にも経験があったし、入部ガイダンスで熱心に声かけをしてくれた3年生の女子部員が、楚々としており、その大人の雰囲気に魅かれたからだ。
映画研究部は、すでに入部していたクラスの同級生の女子たちから、映画好きなら、一緒に映画を見にいこうよと、これも熱心に誘われたから、という単純なものだった。
高校入試に失敗した、挫折感と孤立感の克服を、彼は部活に求めたのかもしれない。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
「職員会議の横暴は許さないぞ〜」
ハンドマイクを握り締め、彼は叫んだ。
「職員会議の横暴は許さないぞ〜」
集会に集まった生徒たちのシュプレヒコールがそれに応じる。
彼は全校集会で、映画上映の妥当性と、学校からの中止要求の不当性を訴えた。
生徒会執行部が、応援の演説をしたあと、再び、彼にマイクが渡された。
役員が彼に黒いヘルメットを被せて、シュプレヒコールをしてくれと言った。
彼はなにか悪い夢を見ているような気持ちになっていた。
これまで親しかった友人たちが遠巻きにして、訝しげに、あるいは心配そうに、彼に視線を投げつけていたが、しかし、もはや引くに引けない状況になっていた。
「文化祭で映画を上映するぞ〜」
彼はぎこちなく、握り締めたたこぶしを、天に向けて突き上げた。
「文化祭で映画を上映するぞ〜」
多くの生徒たちのシュプレヒコールがレスポンスして校舎に響くとき、彼はふと、文化祭の舞台でフォークソングを歌い、観客席が唱和したことを脳裏に浮かべていた。
あれも青春なら、これもまた、青春なのかもしれない、と思った。
「M高映研部は最後まで闘うぞ〜」
映画研究部の部員たちが、生徒会役員に促されて、前列に出てきた。
「M高映研部は最後まで闘うぞ〜」
一度は離れていった部員たちが、戻ってきているのが見えた。
後輩部員の同級生らしき生徒がフォークギターをかき鳴らしながら歌い始めた。
起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
醒めよ我が同胞 暁は来ぬ
暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕結びゆく
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
ああ インターナショナル 我等がもの
「インターナショナル」−革命歌
友よ 夜明け前の闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ。
夜明けは近い 夜明けは近い
友よ この闇の向こうには
友よ 輝く明日がある
「友よ」−岡林信康
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため
彼は3年になって、映画研究部の部長に就いていた。
文科系クラブの唯一の大イベントの文化祭で、彼が1年のときは映画の紹介と批評の展示、2年のときは8ミリカメラで自主制作した娯楽映画の脚本と監督を担当して上映した。
3年になっての文化祭は、いちばん準備に手間のかからない、映画の上映会をすることに決めて、視聴覚教室の学校施設と16ミリ映写機の機材の貸出しの予約手続きを済ませ、
あとは上映する映画を決めるだけだった。
上映する映画は、少ない部費のため、社会教育映画か、アニメなどの娯楽映画か、いずれにしろ公的な機関から、無料か低料金で貸し出してもらえる映画に限られていた。
そのとき、同級生の男子生徒から、関東地方で部落差別による冤罪事件があって、それを扱った映画を無料で貸し出してもらえるから、それを上映してはどうかと持ち掛けられた。
同級生の男子生徒は、彼とは幼馴染であり、小中学校も一緒で信頼を置いていた。
まずは事件を描いた劇画本を貸してもらって読み、それから映画のパンフレットとシナリオを借りて、チェックし、特に問題はないことを確認したあと、他の部員にも読ませた。
予想していたとおり、固い、暗い、重い、面白くないのでは、と、乗り気でない反応を見せる部員たちに、彼は、考えているところを述べた。
「おととしの文化祭では洋画や邦画の商業映画、恋愛映画や劇映画、アクション映画、SF映画やアニメ映画などの展示をした。それから去年は、映画のエンターテイメント性、娯楽性をテーマに、ホラー映画の学園パロディー映画を8ミリで作って上映した。だから、今年は、映画のまた違った側面、社会性や思想性、報道性といった、何かを考えさせる映画、何かを訴えるという映画というものがあることを取り上げてみたい。」
映画研究部の部員会は、映画好きが集まっているから、記録映画や特撮映画、ドキュメンタリー映画、無声映画なども含めて、シナリオや出演者、撮影技法などの映画の話題に関してはすぐに話が盛り上がったが、上映する映画の決定では、なかなか結論が出ずに、あれこれ行ったり来たりしながら、結局、部長の彼が最初に一押しした映画を、部長一任のような雰囲気で、上映することに決定した。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
映画は、「狭山の黒い雨」という、モノクロ(白黒)の106分の劇映画だった。
映画が扱っているテーマは、いわゆる狭山事件と呼ばれ、埼玉県狭山市で発生した16歳の女子高校生が誘拐され殺害された事件で、被差別部落出身の青年が逮捕・起訴され、一審判決で死刑判決を受け、その後、控訴審段階になって、自白を強要されたなどとして、無罪を主張し、部落差別による冤罪を訴えたもので、部落解放同盟大阪府連などの支援団体が作製し、その映画の上映運動により支援活動をしていた。
文化祭の上映時には、すでに控訴審も結審しており、判決が出る直前の頃だった。
高校生の彼には難解だったが、一審判決文や控訴審の準備書面なども読み進めて、大学の法学部への進学を志望していた彼にとっては、不自然な捜査や不可思議な証拠への疑惑など、冤罪が強く疑われる事件であることは、理解していた。
また、大阪では小中学校で、「にんげん」という副読本を使った部落解放教育、同和教育が積極的に推進されていた頃であり、また深夜放送では、すぐに放送されなくなったが、岡林信康の「手紙」という曲が流れていた頃でもあった。
彼もまた、フォークギターでその曲をコピーして歌い、観念的ながら、差別はあってはならないことで、仮にもし、差別が原因の冤罪により、人の命を奪うことになれば、それは正義として許されないと考えたから、この映画を上映することにためらいはなかった。
もしも差別がなかったら
好きな人と お店がもてた
部落に生まれた そのことの
どこが悪い なにがちがう
「手紙」−岡林信康
だから、文化祭当日の視聴覚教室と映写機の貸出しのために、上映映画を決定したことについて、映画研究部の顧問教師に伝えたとき、映画好きの数学教科担任の顧問教師は、「なんか、えらい難しい映画を選んできたんやな。ほんまにそれでええんかな。どうやろなぁ。」と、顔をしかめたことの意味を、彼はそのときよく理解はしていなかった。
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため
数日後、その顧問教師から、その映画の上映中止を伝えられた。
「すまん、悪いな、その映画は、学校で上映するのはふさわしくない、その映画を上映するのは問題であるというのが、職員会議の多数意見なんや。ここはひとつ、先生の顔立てたる思うて、違う映画に差し替えてくれへんかな。」
これまで映画研究部の部活の内容に、ほとんど口出しも関与もすることがなかった、顧問教師から、さらっと言い渡された突然の言葉に、彼は納得できなかった。
「ふさわしくないって、被害者はぼくらと同じ高校生で、加害者とされる青年は冤罪かもしれない、そんな事件を扱った映画を、高校の文化祭で上映することの、どこがふさわしくないんですか。映倫(映画倫理委員会)もパスしているし、成人映画の指定もない、むしろ文部省や教育委員会も推薦しているような映画の、どこが問題なんですか。映画を一方的に上映中止しろなんて、戦時中の検閲と同じです、表現の自由はどこにあるのですか。」
顧問教師は困りきった顔をしながら彼にいった。
「いや、映画の中身や内容というよりは、その映画を作成した団体や、上映運動をしているその団体が問題ということらしい。その団体が、暴力的であるとか、偏向しているとか、そういう先生方もおられて、ともかく、もめごとになるかもしれんから、やめてくれへんか。」
事なかれ主義のような言い方に、彼は顧問教師に反発した。
「映画の中身や内容が、観客である生徒に良くない影響があるからやめろ、と言うのならば、考え直すこともできます。もしその団体が、問題というなら、その団体に対して、こんな意見や評価もあるということを、上映チラシや映画評論に書くことも検討します。しかし、一方的に、職員会議の意見やから上映中止をしろ、というのには、納得できません。」
毅然として反論する彼に、諦めたようにため息をつき、顧問教師は彼に言った。
「ふう、職員会議では、その映画の上映を強行するというなら、上映すべきでないという学校の方針に従わない生徒として、処分せよとの意見もあることは伝えておくよ。」
「処分って、なんなんですか。」
「うん、まあ、停学処分とか退学処分とかやろかな。そこまでは考えられへんけどな、でも学校の指導に従わないということなら、出席停止くらいはあるかもしれんな。」
彼の脳裏に、退学処分で大学受験資格が無くなったらどうしようか、という考えが、一瞬脳裏に浮かんだが、もはや引き下がれないと思い直して、脳裏から慌てて消した。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
数日して、映画を紹介した同級生の男子生徒が、生徒会長が話しをしたいから、放課後、生徒会執行部室に来てほしいと、彼に伝えてきた。
1年生、2年生と、彼は4期2年の間、学級委員長に選任され続けたため、生徒会の代議員を務めていたが、生徒会では、制服自由化問題のあとは、校舎の老朽狭隘に伴う移転問題が大きな議題で、教育委員会や教職員団体、同窓会、地域団体等で、現地で建て替えするか、郊外に移転するかで、意見が分かれて決着を見ていなかった。
生徒会も、自分たちの卒業までには、とうてい解決するような問題ではなく、現時点での老朽狭隘校舎の劣悪な環境の早期改善を求める決議をすることで終わっていた。
彼も、部室の改修などでは、生徒会の学年会をまとめるなど協力はしていたし、また部活の予算査定などでも、生徒会活動との接点があり、決して敵対関係にはなかった。
しかし、生徒会執行部は、相変わらず全共闘系の生徒で占めらており、深入りは避けていたし、3年になって代議員を辞めてからは、生徒会活動とも疎遠になっていた。
「部室の話しのとき以来か、ほんま久し振りやな。まさかこんな形で再会するとはな。」
生徒会長は、1年の時から面識があり、2年の時は会計担当として、クラブの予算の増額を認めてくれたことで、特段、悪い印象は彼は持っていなかった。
「ところで、今回の話は聞いているよ。筋の通った意見を通す君らしい行動やなと思う。生徒会執行部としても、学校の対応は問題や。今回の映画研究部の映画上映については、全面的に支援することにしたから、頑張ってほしい。ともに学校の横暴と闘おう。」
長い髪をかきあげながら、生徒会長は笑みを浮かべて言葉を続けた。
「それに、生徒会執行部としても、我が校の部落解放教育には問題があると認識していたところやし、今回の闘争を機会に、前進させたいと思ってるんや。共に闘おう。」
彼は生徒会長の言葉に、目指す目的や方向は違うな、と考え、返事を躊躇した。
しかし、今回の上映を中止しろという学校側の対応には、映画上映の自由、表現の自由を守るということから、映画研究部として受け入れがたいことであった。
また、顧問教師が彼の家に電話を架けてきて、彼の母親に、遠まわしながら圧力をかけようとしていることも知っていたし、また自分が受けるかもしれない、何らかの学校側の処分に対しても、一人で学校側と対峙する不安もあった。
彼は生徒会長に答えた。
「共に闘おういうても、ぼくや映画研究部は、実力行使や暴力闘争をする気はない。しかし、映画研究部部長として、映画研究部が自主的に決めた映画の上映に対して、先生方や学校側の理不尽な中止の命令には全然、納得でけへん。そのために、あくまで選挙で選ばれた、全校生徒の代表としての生徒会には、支援はしてほしいと思う。」
生徒会長が大きく頷いて彼に言った。
「もちろんや。我々に対して、教師はすぐに過激派とか暴力集団とかのレッテルを張ろうとしているが、全然それはちゃうで。しかし、正しいことは正しいと主張するのが正義やろ、そして正義は闘争で勝ち取らなければならないし、真実の解放は与えられるもんやなくて、奪い取るもんなんや。だから、生徒会は君らに圧倒的支援をするから連帯しようや。」
そして、その数日後、生徒会執行部は、映画上映の中止命令の撤回を、学校側に正式に申し入れたようだったが、学校側の態度に変化はなかった。
その後、彼は、何度か生徒会執行部と、上映に向けての戦略会議を持って、彼は生徒会長の要請を受けて、上映中止の不当性を訴えるビラの原稿を書き、生徒会執行部は、それをガリ版印刷して、そのビラを校門の入り口で全校生徒にまく活動をした。
そして、生徒の自主的な全校集会を開いて、生徒会長が支援の演説を行ったあと、映画研究部の部長である彼に、シュプレヒコールを要請し、彼はぎこちなく応じた。
最後に、生徒会執行部は、学校側に期限を切って、誠意ある回答がなければ、次に開く全校集会後に、校門のバリケード封鎖することを予告した。
彼はバリケード封鎖することには消極的または否定的だったものの、かといって代案は思い浮かばず、その流れに任せるしかなかった。
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため
その期限の数日前のことだった。
彼が詰めていた映画研究部の部室に、一人の教師がやってきた。
「ちょっと待ちいや、この騒動の首謀者が君や聞いて驚いたで、どないしたんや。」
彼にそう言ったのは、彼の2年生の時の古典の教科担任で、担任でもあった男性教師で、彼が3年になった年には、教育委員会に指導主事として異動していた。
「いや、今日は教育委員会として来てるわけやないで。ここで、教育委員会が動いたら、まず変なことになるからな。あくまで君の元担任として、今回のことで、ちょっと君のことが心配やったし、ちょっと聞きたいこともあったから来た。ほんで、なんでこうなったんや。」
彼はこれまでのいきさつをその教師に話した。
教師は彼の話に頷きながら、言葉を選ぶような口調で、彼に言った。
「そうか、でもその映画を、ここの学校で上映するなんて、かなり無謀な話やとは思うで。たとえたら阪神巨人戦の甲子園球場の一塁側で、巨人軍の応援歌を歌うようなもんやろ。」
教師のたとえは、わかりにくかったが、なんとなくニュアンスだけは彼に通じた。
「主流の先生らのメンツというのもあるやろ。顧問の先生も、板挟みになってるみたいやな。あの先生も教職員組合の役員の経験もある先生やけど、もともとは社会党系の先生やから、まあ、たとえていうたら、隠れ巨人ファンの立場かもしれんな。」
教師は、話しが深刻になるのを避けるように、冗談交じりに笑みを浮かべながら言った。
高校生の彼にとって、学問的な世情の理解はあっても、実際の世事には疎かった。
新聞や雑誌などで、知識として得ていた、政治の世界や、教職員組合や労働運動の対立の話、そしてなにより、大人の駆け引きの世界が彼の目の前にあった。
「しかし、君が、その映画上映を、その団体とか、生徒会から、押し付けられたり、脅されたりして、しようとしてるんやないことはよく分かった。それが心配やったからな。まあ、もっとも、君が利用されたり、脅されたりして、動くような生徒やないとは思ってたけどな。」
困惑している彼に、その教師は苦笑いを見せながらいった。
「まあ、強硬に反対する先生もいるが、頑張れって思ってる先生もいることは事実なんや。将来、教師になるかもしれん君には、ちがう意味で、ええ勉強になるかもしれんな。」
それから教師は、丁寧に、学校の中での教師同士の深刻な政治的、思想的対立や組合内部での対立があることや、他校においては、部落問題を巡ってかなり深刻な教育現場の混乱があることなどに触れて、うかつに巻き込まれないよう、彼に助言した。
「大学受験まで、あと半年もない。文化祭終わったら勉強に専念すると約束できるか。」
彼が2年になって、成績が一時トップから脱落したときに、実力はあるからやればできます、と言い訳したときに、君はやればできるというが、やればできるのにやらないのも君の実力やと、鋭い指摘をされたことを思いだしながら、教師に向かって大きく頷いた。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
生徒会執行部が期限を切った全校集会の期日の直前になって、映画研究部の顧問教師から、文化祭の日の視聴覚教室と映写機の使用許可が出たことが告げられた。
「職員会議としては、あくまで、学校で上映するには、ふさわしくない映画であるとの意見は変わらない、しかし、生徒が文化部の部活として、文化祭で、自主的に上映することには、関わらないことになったから、まあ、事件や事故の無いように運営してほしい。」
顧問教師や指導主事が、どういう立場で、どう動いたのか、彼には分からなかった。
また、あるいは強硬に反対していると聞かされた教師たちが、なぜ急に矛先を収めたのか、それも彼にはよく分からなかった。
しかし、いずれにしろ、学校、職員会議としては、映画上映を承認はしないが、黙認はするということで、あっけなく、決着をみた。
生徒会執行部の一部は、この決着について不満のようであったが、当事者の映画研究部部長が受諾をすれば、それ以上、なすすべはなかった。
そして、映画は、目標とする観客動員数を大きく上回り、盛況のうちに終わった。
終わったあと、生徒会執行部から、文化祭のフィナーレのキャンプファイア前に、上映闘争の勝利のシュプレヒコールをしてほしいとの要請が彼にあった。
しかし、彼は謝辞は述べたものの、シュプレヒコールは断った。
もはや、彼が主張すべきことはなにもなかったからだ。
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため
そして文化祭が終わってしばらくして、狭山事件の控訴審判決があった。
生徒会執行部の役員の中には、控訴審の裁判長が、それまで弁護側に有利な判決をしてきた裁判長であることから、この裁判長ならば、きっと不当な判決を見直し、無罪判決を出すに違いないといった、根拠の希薄な楽観的な主張をしていたが、彼は控訴審の流れから見ても、逆転の無罪判決は難しいのではないかと思っていた。
そして、なによりも、差別を糾弾するという彼らが、この裁判長ならば無罪判決を出すに違いないというような言い方をしたことに、あたかも、あいつならやりかねない、あいつなら人を殺しかねない、というような、予断と偏見のある差別的な考え方に限りなく似てくるんじゃないか、と、彼は感じた。
判決は、死刑から無期懲役へ減刑されたものの、有罪判断は覆らなかった。
その後、彼に、M高部落解放研究会の設立の発起人として参加の要請があった。
上映闘争を契機に、さらにM高校の解放に向かって闘おうというものだった。
しかし、彼は映画の上映をもって自分の使命は終えたからと、固辞した。
いきさつを知っている生徒会長らは一定の理解を示したが、無罪判決を信じていた過激的な一部の執行部役員からは、運動を裏切るのか、同志を裏切るのか、日和見主義者か、入試を前に教師側に寝返ったのか、などとの汚い言葉が浴びせかけられた。
彼は反論したが、現状認識の違いから堂々めぐりして、もはや合意はできなかった。
静かに彼は席を立ち、感謝の言葉を述べて一礼して、生徒会執行部室を出た。
罵声が背中に突き刺ささるのを感じながら、足早に、彼は帰路に着いた。
秋の日の夕暮れどき、秋風が、おまえはなにをしてきたのだと告げたような気がした。
いざ闘わん、いざ、奮い立て、いざ〜。
どこからか、生徒集会の時に唄われた唄が聞こえたような気がした。
いざ〜われら〜M高校。
そういえば、学校の校歌の一節にも似ている気がした。
そして、そういえば、来月号の大学受験ラジオ講座のテキストを、まだ買ってなかったことを思いだして、彼は本屋に足を向けた。
その後、解放研究会は設立されたものの、多く活動しないままに消えたと聞いた。
そして、それから7年後に、M高校に制服が復活したことも、彼は風のうわさで聞いた。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
まず、最初に、この話には実在する団体や事件名、作品名等を出していますが、それはあくまで当時高校生であった個人の記憶に基づくものであり、記憶違い、あるいは理解不足、あるいは誤解や思い込み、伝聞によるものもあって、フィクションではありませんが、客観的な史実や正確な評価に基づくものではないことを、お断りしておきます。
いかなる個人、団体に対する誹謗、中傷の意図はないこともご理解ください。
また、お気づきのことかと思いますが、この話は、私自身、マスター(館長)自身のことながら、あえて「彼」という三人称にさせていただいたのも、むかしの自分が関わったことを、できる限り客観的に視てみたい、という趣旨であって他意はないこともご了承ください。
さて、職員会議で、上映に強硬に反対したのが、二人の女性教師たちだったのか、そうでなかったのかも、どのような関わりがあったのかは実は明らかではありません。
彼女たちとは、結局、この件に関しては、当時もそのあとも、何も話さないままに、真実を閉ざしたままに、永遠の別れをしてしまいました。
しかし、反戦や平和について、あるいは学生運動について、それまでに彼女たちが熱っぽく語ってくれたことや、そしてこの出来事のあとにも関わらず、現役で大学に合格したときには、わざわざ笑顔でお祝いの言葉をかけてきてくれたことは、忘れ得ぬ想い出です。
また、部落解放同盟という団体についても、さまざまな評価や評判があることは知っていますが、少なくとも当時のこの映画のフィルムの貸出や上映に関しては、前面に出てきた記憶も圧力を感じたことも一切ありません。
映画フィルムの貸出は、名前は忘れましたが、ある中学校の男性教師が窓口となって、その中学校の職員室で、貸出や返却手続きをしたこと、そして、なにより、その学校の施設や設備が、公立中学校とは思えぬような立派なものだったことは記憶にあります。
なお、余談ですが、当時、民青に所属する生徒から、かつて部落解放同盟は、日本共産党員であった監督が作った「橋のない川」という部落差別を扱った映画を、差別助長映画として糾弾し、上映阻止運動をしたことがあったことは教えてもらっていました。
また、活動から抜けるときに罵声を浴びた、とだけ書いてますが、実のところは、この脱退については、かなり危険な状態だったらしく、最初に映画を紹介してくれた友人や生徒会長らが、総括や粛清するという過激派に属する執行部役員のとりなしをしてくれたことは、かなりあとになってから知りました。
この映画が取り扱った事件については、死刑から無期懲役へ減刑した控訴審判決のあと最高裁に上告して争われて、結局、最高裁で無期懲役が確定しました。
しかし、その後も再審請求が続けられており、決着を見ていません。
真実はどうなんだろうか。
正義はどこにあるのだろうか。
高校生時代から長い年月が経った今も、そんな思いはいまだ消えません。
シュプレヒコールは、デモや集会などで、スローガンや訴えを、ひとりの主導者に続いて、参加者全員が一斉に繰り返し唱和する行為のことで、労働者が団結して賃上げや待遇改善を要求し、労働者の権利を主張する5月1日の労働者の祭典、いわゆるメーデーなどの集会においては、今でも使われているようです。
なにかの集会に遭遇して、シュプレヒコールをしているのを傍聴すると、かって体験したときの情景とともに、ふと、今回の唄が聞こえてくるような気がします。
この「世情」(せじょう)は、中島みゆきさんが作詞・作曲し、1978年(昭和53年)にリリースされた4枚目のオリジナルアルバム「愛していると云ってくれ」に収録されています。
また、1981年(昭和56年)のTBS系テレビドラマ「3年B組金八先生」第2シリーズ第24話の挿入歌として使用されて有名になり、またその後の再放送や、ドラマのパロディとしてバラエティ番組などでも使われていますが、もともとはやはり暗くて重い、青春の唄です。
でも、やはり、この救いのない重々しさが、中島みゆきさんらしくて素敵ですね。(笑)
(初稿2014.6 未改訂) |