|
ひとりの兵士が、戦場で、いままさに、銃弾に倒れようとする瞬間を捉えた一枚のモノクロ写真。
はるか彼方の山の稜線と、広い空を背景に、手にした銃をうしろに飛ばし、丘陵の斜面にのけぞるようにして、崩れ落ちようとしている兵士の姿の写真。
この写真を見せてくれたのは、中学1年のときの担任で、社会科教諭のT先生だった。
白髪交じりのオールバックに眼鏡で、本人も好きな作家として多少は意識していたためか、推理作家の松本清張さんのような風貌だった。
一学期の半分近くを病休していたぼくのために、放課後に残って、補習をしてくれる熱心な先生だったものの、ぼくにとっては、迷惑も半分。(笑)
勉強に飽きてきたぼくのそぶりに、興味をつなぎとめようとしたのか、休憩のときに、ぼくの前にポンと置いたのが、この写真の載っている古い雑誌だった。
その衝撃的な写真には、「崩れ落ちる兵士」というタイトルがついていた。
「Nくんよ、この写真、すごいとは思わへんか。これは、スペイン内戦のとき、ほんまもんの戦場で兵士が銃弾に倒れる決定的瞬間を撮った写真なんや。」
確かに、人が撃たれた瞬間の写真は、迫力があったものの、迫力といえば1963年(昭和38年)のジョン・F・ケネディ大統領暗殺のテレビ中継画像の記憶があるだけに、驚きもいまひとつ、それにスペイン内戦なんて知らんしなぁと、はぁ〜と気のない返事をした。
「よう見てみぃ、この兵士の写真を撮ろうとしたら、このカメラマンはどこにいたら、撮れると思う。」
T先生に言われて、ぼくははじめて気がついた。
確かに、この写真を撮ったカメラマンは、この兵士よりも前にいなければ、前からは撮れない。
ということは、背後から銃弾が飛んでくる場所で、しかも、銃口に背中を向けていないと撮れない。
「そう、このカメラマンは、命がけで、この写真を撮ったんや、世界に戦争の現実を報道するために。」
野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの
この写真を撮ったのは、ハンガリー生まれのユダヤ 人であるアンドレ・フリードマンというカメラマン、つまりは、ロバート・キャパ(Robert Capa)という、報道写真家だった。
1936年(昭和11年)9月に撮影した、この衝撃的な「崩れ落ちる兵士」で評価を得て、第二次世界大戦が始まってから終戦まで、特派写真家としてヨーロッパ戦線の重要な場面を記録していく。
特にノルマンディー上陸作戦の際に撮影された一連の作品は、第二次大戦中の報道写真の最高傑作とされた。
その後、作家志望でもあったキャパは、有名な「ちょっとピンボケ」という本を著したりして、1954年(昭和29年)4月には来日して、日本で大歓迎され、日本各地を回って、写真を撮った。
そして、その翌月の5月に、インドシナ戦争の取材の依頼を受けてベトナムに渡り、ハノイ南方で、地雷にふれて死亡した。享年40歳。
しかし、キャパの撮影したこの「崩れ落ちる兵士」の写真には、やらせ、つまり演出で撮影したものだという疑惑が吹聴された。
スペインの民兵にお金を握らせて、撃たれて倒れる真似事をさせたのではないかという疑惑。
確かに完成された構図に決定的な瞬間。
しかし、カメラを持ち、被写体を撮ろうとファインダーを覗いた経験のある者ならば、その疑惑を持つことこそが、疑わしいことに気がつくだろう。
風景写真であっても、ここにススキが欲しいな、月見草があればどうかしらと、思うことはある。
花ならば、こちらを向いてくれないかとも。
しかし、そうして作為的にして作られた風景なり花なりの写真は、やはり納得の行く写真に仕上がらないのは、カメラを肌身離さず持ち歩いて、写真を愛好する人ならば、わかることだと思う。
なぜなら、写真が写し出しているものは、「物体(モノ)」ではなくて、「瞬間(トキ)」なのだから。
カメラマンは、なかなか訪れない、その瞬間を切り取れたときにこそ、満足を得るものなのだ。
後年、亡くなった「崩れ落ちる兵士」の遺族が名乗りを上げて疑惑は晴れたが、ロバート・キャパに向けられた疑惑は、彼の名声と幸運をねたむ人の心の卑しさ、醜さをも写し出しているようで興味深い。
戦争の日を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えばああ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む
「ところで、Nくんよ、社会科研究部の数少ない一年生として、二学期は体調に気をつけて、秋の文化祭、頑張ってくれよ。」
ぼくは中学では部活に生物部を選んだが、担任が顧問をしている社会科研究部に一年生が集まらず、半ば頼まれるようにして、掛け持ちで入っていた。
「戦争をテーマにするのは確かに難しいが、戦後四半世紀近く、沖縄の本土復帰も近いし、君ら一年が選んだそのテーマは、いいテーマやと先生は思う。」
生物部の方が動物を飼ったり、顕微鏡を覗いたりして面白かったが、社会科も嫌いではなく、先輩たちが安保問題やベトナム戦争について議論するのに生意気に加わったりして、社会科研究部員として活動を開始した直後、体調を崩して入院し、長期に病欠してしまったのだ。
「せやな、こんな写真もいいかもしれへんぞ。文化祭では、パネルにして使ってもいいかもしれんな。」
そう言って、T先生は、資料棚からスクラップを持ち出してきて、ぺらぺらとめくって、ぼくに差し出した。
そこにまた、一枚のモノクロ写真があった。
こんどは河なのか海なのか、流れの激しそうな水の中で、必死の形相で、母親らしき女性二人が、子ども三人を連れて泳ぎ渡っている写真だった。
「この写真はな、澤田教一という人が、ベトナム戦争で撮影したもので、日本人として初めてピューリッツアー賞をもらった写真なんや。」
まるで、自分の親戚か、友人のことのように、T先生が誇らしげに語るのが、不思議でもあり、また、なんとなく、ほほえましくも思えた。
T先生は、子どもの頃の病気が原因で、右目が濁って視力がほとんどなく、カメラマンになる夢が果たせなかったことを、以前、聞いたことがあった。
できないことを嘆くより、できることを見つけて、自分にしかできないことがあることを知りなさい、というのも口癖だった。
「先生はな、この澤田教一という人は、きっと日本のキャパになる人やと思うとるんや。せやから、文化祭で、絶対、みなに紹介したってほしいな。」
T先生の左目が、きらりと光ったような気がした。
この写真が、「安全への逃避」という1966年度ピューリッツアー賞(ニュース写真部門)を受賞した有名な写真であること、そしてそのカメラマンが、日本が世界に誇る報道写真家、澤田教一であることを改めてぼくが知ったのは、彼がカンボジア・プノンぺン郊外で銃弾に倒れ、34歳の短い生涯を終えた、1970年(昭和45年)のことだった。
1970年(昭和45年)と言えば、大阪では万国博覧会が開催され、「戦争を知らない子供たち」が流行っていた頃だった。
死後に、澤田教一は、報道写真家の最高の栄誉といわれるロバート・キャパ賞が贈られている。
そして、彼もまた、皮肉にもキャパと同じように、この写真で非難を浴びている
写真を撮っているような暇があれば、なぜ母子を早く助けないのかという非難である。
もちろん非難しているのは、助けようにも、その現場には行ってない、戦地に行ってない人である。
要するにわが身は安全な場所にいて、批評、批判して、講釈を垂れているだけの人だ。
もちろん、彼も写真を撮ったあとに、すぐに母子の救出を手伝っているし、気にすることはないと思うが、人の不幸で賞金を稼いでいるという心無い非難は、やはり彼の重荷だった。
そして、受賞した賞金の一部を渡すために「安全への逃避」に写っているベトナム人の家族を探しだして会いに行っている。
彼が写真で表現したかったものは、米軍の無差別攻撃、いわゆる「北爆」により焼き討ちにあった村から、命からがら逃げ惑う罪なき人々の姿だった。
悲惨な戦争を、レンズを通してフィルムに納め、報道写真として、世界に悲惨なベトナム戦争を知らしめるべく戦地をめぐり、そして戦場に散ったのだ。
いくさで死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの
ロバート・キャパや、澤田教一、その他戦場で散った多くの戦争報道カメラマンは、その命をかけて、後の世の「戦争を知らない子供たち」に、「戦争は知らない」からなんて、無関心でいてほしくないと、戦争の悲惨さを生々しく写真で伝えてくれているのだ。
そして、彼らもまた平和の礎になってもかまわないと戦場に散った戦没者であり、彼らの御霊の安らかならんことを祈るためには、この世界から戦争の惨禍が再び起こらぬように、永続的な平和を築いていくことよりほかにはない。
見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの
日本では戦後60年を経過した。
いくさ知らずの人も、はや還暦を迎えた。
しかし、世界に目を向けると、いまなお、戦火は絶えず、紛争はくすぶり続けている。
世界中の子どもたちが、またその子どもたちが、いつまでも「戦争は知らない」といえる世界が来るように、ぼくにできることを続けていきたい。
そして、あなたも…。
この曲の作詞は、劇作家で詩人の寺山修司さんで、作曲はザ・リンド&リンダースというGSにいたジャズ・ギタリストの加藤ヒロシさんという異色コンビ。
それゆえに、決して明るくない歌詞内容を軽快にリズムに乗せかつ整合させることに成功させています。
寺山修司さんは青森県弘前市出身で、青森県青森市出身の澤田教一さんとは、青森県立青森高等学校の同窓生でした。
そしてともに、早稲田大学を目指し、寺山修司さんは合格し、澤田教一さんは失敗し、またともに、米軍基地のある三沢市とも縁が深いのは、なかなか興味深いものがあります。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
百年たったら帰っておい で
百年たてばその意味わかる
寺山修司
ザ・フォーク・クルセダーズは、北山修さん、加藤和彦さん、端田宣彦さんのグループです。
フォークルといえば、大ヒットしたコミカルソングの「帰ってきたヨッパライ」のイメージが強いと思いますが、フォークでもなくロックでもなく、コミックソングからラブソング、プロテスタントソングまで、その守備範囲は広く、のちに続くアーティストに大きな影響を与えたという意味では、日本のビートルズという評価も決して誇張ではないと思います。
2002年には、北山修さん、加藤和彦さん、そしてアルフィーの坂崎幸之助さんを加えた編成で、いちどだけ再結成しましたが、やはり、はしだのりひこがいないのさびしかったです。
(初稿2005.8 未改訂) |