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公園のD−51は
退職したあと
ほんのわずかばかりの レールをもらって
もう動かなくなった
D−51(デゴイチ)というのは、言うまでもなく、デゴイチの愛称で親しまれ、かつて全国の線路を走っていた蒸気機関車を代表する国産のD51形蒸気機関車のことです。
今も観光用として走っているのをニュース報道などで見かけるC57形蒸気機関車が、貴婦人という優雅な愛称で、中型の旅客用蒸気機関車であるのに対して、D51形は主に貨物用蒸気機関車であり、1936 年(昭和11年) から1945年(昭和20年)の間に、1115両という、日本で最多の製造台数を誇り、戦前から戦中、そして戦後にかけて当時の国内の輸送に多く貢献しました。
その後、時の流れの中で、蒸気機関車は、ディーゼル機関車や電気機関車に主役の座を奪われて、その役目を終えた蒸気機関車の多くは引退して解体の運命をたどりましたが、一部の車両は各地の公園などのモニュメントとして保存されました。
その多くは、動作・運用が可能ではない状態での保存(静態保存)です。
しかし、今でも京都市にある公益財団法人交通文化振興財団が運営する蒸気機関車の専門博物館である梅小路蒸気機関車館では、本来の用途としての動作・運用可能な状態で保存(動態保存)されており、定期的に敷地構内を、わずかながら走行しています。
ちなみに、鉄道唱歌で、汽笛一声新橋を〜と唄われた、1872年(明治5年)日本で最初に新橋駅〜横浜駅を走った1号機の蒸気機関車は、イギリスからの輸入された150形蒸気機関車で、現在、さいたま市にある公益財団法人東日本鉄道文化財団にある鉄道の専門博物館である鉄道博物館に、重要文化財として保存されているそうです。
また、東京の新橋駅にある、通称SL広場に静態保存されている蒸気機関車は、C11形蒸気機関車だそうで、待ち合わせの人たちや、新交通システムのゆりかもめに乗り換える人たちに、その姿を見せてくれています。
父は特別他人と違った生き方を
して来たわけではない
ただ黙々とむしろ平凡に歩いて来たのだ
戦争のさなかに青春を擦り減らし
不幸にも生き残った彼は
だから生きる事もそれに遊ぶ事も
あまり上手ではなかった
私事になりますが、マスター(館長)の父親は、マスター(館長)が8歳の時に、人生を引退し、つまりは、享年46歳で、急性腎炎を悪化させて、亡くなりました。
父親は、いわゆる1937年(昭和12年)に始まる上海事変(日中戦争)の際から、中国大陸の中部地方である中支(中支那)に派兵されて、参戦してすぐに銃撃戦に遭遇して、左足を負傷したようです。
幼き記憶ですが、父親の左足のすねにかなり大きな創傷があり、戦時中の不完全な治療のためか、歩行に支障はないものの、完全には癒えてなかったことは覚えています。
不幸にも、参戦してすぐに負傷したことが、治療後も最前線に派兵されることなく、後方支援部隊としての衛生兵(看護兵)や炊事兵などの兵役に就いていて、終戦を迎えたために、一命を取り留めたとのことです。
もちろん、戦争は殺し合いなので、殺し合いに参加して、殺して、殺されて、本懐を遂げるのが、兵士としての本望であるというのが建前です。
だから、負傷して参戦できないのは、やはり兵士として不幸ということになり、そして、生き残るというのは、もっと不幸ということになります。
やはり、なんて、悲しい時代だったのか、というしかありません。
そういう彼を僕も一度は疑い
否定する事で大人になった気がしたけれど
男の重さを世間に教えられて
自分の軽さを他人に教えられて
振り向いて改めて彼をみつめたら
やはり何も答えぬ無器用な背中
8歳で父親を亡くしたために、マスター(館長)にとって、想い出のなかの父親の大きな背中は、いつまでたっても大きな背中のままであり、8歳の子どもにとって、彼は、なんでも知っており、なんでもできる、絶対的な存在のままなのです。
思春期から青年期にかけて、父親に反抗し、対立する友人たちの話を、愚痴として聞かされても、うらやましく思えたことがありました。
もちろん、もし生きていたとしたなら、もちろんぼくも反抗し、「親父」の考え方や生き方、つまりは背中を否定しようとしていたろうと思います。
優しさと優柔不断、慎重さと臆病さと、雄弁的と饒舌的、などなど、やはり人として、男として、あるべき意見として、対立したかもしれません。
その前に逝ってしまい、それが、幸か不幸か分からないけれど、しかし、自分が大人になるにつれ、そして自分が父親となって、父親の享年すらも追い越してしまった、いま、その父親の背中をいまさらながらに感じることがあります。
見て育ったわけではないけれど、やはり、良くも悪くも、「血」としては受け継いでいるような気がします。
退職の朝彼はいつもと変らずに
母のこさえた弁当を持って
焦れったい位あたり前に 家を出て行った
マスター(館長)の父親は、江戸時代から大坂東堀で薬種問屋を構えていた、由緒ある商家の家系に生まれましたが、その商家は父親の祖父の代、つまりは幕末維新のころに、衰退してしまい、父親が生まれた頃には、転業を余儀なくされて、通運業を営んでいたようです。
そして父親が成人する頃には、戦時経済統制の中で、その通運業が国営化され、いわゆる国策会社の特殊会社に合併されることになり、株券に類するものとの引き換えに、車両や運搬道具などの経営資産の供出を余儀なくされたということです。
やがて、父親は召集されて外地に派兵され、敗戦により、戦地から戻った父親を待っていたのは、国営の通運業の解体による、保有していた株券類の紙くず化だったそうです。
敗戦で経営資産を失い、空襲で家屋財産も失った状況で、その後、父親は、同じく生き残った長兄とともに、手先の器用さを活かして、タンスや机などの木材家具を作る指物大工となり、もともと商家筋ですから、家具の製造直売の店を始めます。
もっとも、母親から聞いた話では、あまり営業的な駆け引きができずに、お世辞にも商売上手とはいえなかったということです。
そして、やがて、取引先の夜逃げにあったり、不渡り手形をつかまされたりと、人の好さが裏目に出て、経営は苦しくなる一方で、経済成長が始まる直前の景気後退期の中で、元来の健康に対する過信から身体的な無理が重なったのか、病院に行ったときにはすでに手遅れ状態で、数か月寝込んであっけなく他界します。
母が特別倖せな生き方を
して来たとも思えない
ただあの人と長い道を歩いて来たから
いつもと違って彼の帰りを待ち受けて
玄関先でありがとうと言った
長い間ご苦労様とあらたまって手をついた
母親の兄と父親が仕事の関係で知り合ったことから親交を深めて、その妹を紹介されたことが、父親と母親の出会いだったと聞いています。
そして、父親は、借金こそはなかったものの、預貯金はほとんどない状態で、8歳のマスター(館長)と、2歳にならない妹と、そして17歳と14歳の姉の四人の子どもと、小さな家を残して他界したとき、家事育児専念の専業主婦だった母親は40歳でした。
そういう彼女の芝居染みた仕草を
笑う程僕はスレて無かった様で そして
二人が急に老人になった気がして
うろたえる自分が妙に可笑しくて
母親は、「お母ちゃん」から、「おふくろ」「おかん」へと呼び方も変わり、やがてマスター(館長)の長姉が子どもを産み、45才で「おばあちゃん」になりました。
そして、短かかった夫の寿命を引き継ぐように、長生きをして、やがて、母親、祖母、そして曾祖母と呼び方も増えるとともに、加齢とともに、かなり記憶が薄れてきましたが、やはり基本として母親としての記憶がまだ強く残っているようです。
「おとうさん」「おかあさん」なんて懐かしい
呼び方をふいに思い出したりして
父は特別いつもと変らずに静かに靴を脱いだあと
僕を見上げて照れた様にほんの少し笑った
余談ながら、母親の実父、マスター(館長)にとってお祖父ちゃんは、マスター(館長)が就職したときに遊びにきていて、疲れて居眠りをしている母親つまりは祖父にとってのわが娘を、しみじみとながめながらこう言いました。
「お母ちゃんも、おばあちゃんになったなぁ、苦労したさかいな、大事にしたってや。」と、いくつになっても、父親としての心配、親は親、子は子なんやなあと思いましたが、いつしか、それをほんとに実感するような年頃になったマスター(館長)です。(笑)
公園のD-51は
愛する子供達の
胸の中でいつでも力強く
山道をかけ登っている
白い煙を吐いて力強く
いつまでもいつまでも
想い出は遠く…、でも、たなびく煙のように、細く長く、いつまでも残ります。
「退職の日」は、1982年(昭和57年)にリリースされた、「夢の轍」というアルバムに収録されています。
「夢の轍」というアルバムは、かなり地味で、さださんのアルバムとしては、かなり売れなかったといえるアルバムになりますが、青春音楽館にも収載しています、絶滅したトキを唄った「前夜 桃花鳥(ニッポンニア・ニッポン)」や、裁判官が説諭で取り上げたことで有名な「償い」などの名曲も収録されているアルバムです。
さて、ここで描かれている「父」のイメージと、さだまさしさんが2012年(平成24年)に執筆された自伝的実名小説の「かすてぃら〜僕と親父の一番長い日〜」に描かれた、さだまさし(佐田雅志)さんの実父で、2009年(平成21年)に享年90歳でご逝去された佐田雅人さんのイメージが、微妙に異なっているのが興味深いです。
でも、現実のこの父親ありて、現在のこのさだまさしあり、ということを、今更ながらに実感するようなエピソードです。
ちなみに、さだまさしさんの楽曲で父親が登場するのは「朝刊」「転宅」「寒北斗」「凛憧」「親父の一番長い日」などがあり、母親が登場するのは、「精霊流し」「無縁坂」「秋桜」などがありますが、楽曲ごとに、それぞれにイメージが異なりながら違和感がないのは、やはり、さだまさしさんの「小説家」としての才能なのかなと思います。
さて、「退職の日」という楽曲は、父親の定年退職をモチーフにしていますが、いわゆる我が国において、第一次ベビーブーム時代の1947年(昭和22年)から1949年までの3年間に出生した世代、いわゆる多くの団塊の世代の方が60歳定年を迎える2007年(平成19年)には、「2007年問題」が発生するとされました。
つまりは、一斉の大量退職による労働力減少の問題、退職金や年金の支給の問題、企業等における技術ノウハウ継承の問題、多大な退職金や余暇時間の発生による市場への影響、退職者の終の住処移住と地方行政等への課題など、社会・経済への激変が予測されましたが、想定の範囲内の対応で、特に大きな問題や混乱は生じなかったように思います。
今回のエッセイ(雑文)は、そんな「退職の日」にちなんで、退職された方々のことを書こうと思い立って、「すこうし」書いてみて、「よおおく」考えてみると、やはりきれいごとばかりも書けないので、またの機会があればということにしました。
もちろん、自分が動ける間に、いわば動態保存されている間の機会に。(笑)
しかし、まあ、月並みな言葉ですが、マスター(館長)にとって、多生の縁や多少の縁の有無にかかわらず、有縁無縁の多くの退職された方々におかれましては、長い間、ほんとにご苦労様でした、ということで、この「退職の日」の締めの言葉といたします。
なお、併せて、退職された方々の人員補充がないままの職場において、まだまだ働かざるをえないような境遇にある、すべての職場のみなさまにも、さらに、ほんとにご苦労様です、お疲れ様、と言わせてください。(笑)
(初稿2013.6 未改訂) |