|
ああ 日本のどこかに私を待ってる人がいる
いい日旅立ち 夕焼けを探しに
母の背中で聞いた歌を道連れに
「いい日旅立ち」―谷村新司
星がひとつ空から落ちてきた
六月の子守唄うたう 母のもとへ
「六月の子守唄」―ウィッシュ
子守唄といえば、幼い子どもを、抱っこしたり、おんぶしたりして、あやしたり、寝かしつけたりするときに歌われる唄で、学校でも習ったと思いますが、シューベルトやモーツァルトなどの海外のクラシックの子守唄は、穏やかな優しい曲調が多いものです。
ねむれねむれ 母の胸に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ
「シューベルトの子守唄」
ねむれよい子よ 庭や牧場に
鳥も羊も みんな眠れば
月は窓から 銀の光を
そそぐこの夜
ねむれよい子よ ねむれや
「モーツアルトの子守唄」(フリース作曲)
日本でも、一般的に広まって歌われている子守唄は、短調という曲調のためか、多少暗くてもの哀しいイメージがありますが、やはりゆったりとした優しい唄になっています。
母親の子守唄を聴きながら眠った幼き時代の記憶がある人も多いことでしょう。
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねんの子守は どこへ行った
あの山こえて 里へ行った
「江戸の子守唄」
ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の可愛さ
起きて泣く子の ねんころろ つら憎さ
ねんころろん ねんころろん
「中国地方の子守唄」
しかし、子守唄の歌詞には、非常に厳しいものが含まれ、中には、「五木の子守唄」や「島原の子守唄」など、およそ、穏やかならぬものがあることに気がつきます。
おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる
おどんが打っちんだちゅうて
だいが泣いてくりゅうか
うらの松山蝉が鳴く
「五木の子守唄」
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
梨の木育ちよ 何のなしやら 何のなしやら
色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい
「島原の子守唄」
もっとも、多少なりとも子守をしたことがある人なら、子どもがむずかり続けて、泣き止まなくて、どうしたら良いものかと、途方に暮れた経験を持つ人も多いことでしょう。
あやしたり、寝かしたりが、うまくいかずに、憎々しいと思うことだってあるでしょう。
そんなことが、きつくて、つらいという子守の気持ちとして、唄に現れたものでしょうか。
それにしても、うらみ・つらみ・ねたみめいた、かなりきつい表現があります。
守も嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
実は、この子守は、実の子どもや兄弟姉妹を子守することではないようです。
かって日本でも、裕福な商人や農民の家庭では、乳幼児の育児のために、貧しい家庭から若い、というより、まだ幼い子どもたちを子守奉公というかたちで雇っていました。
仕事として、労働として、子守をする、「守子」と呼ばれる子どもたちです。
貧しい家庭は、家計の負担を軽くするために、養うべき家族の人数を減らす、口減らしのために、即戦力の労働力とならない、まだ幼い子どもを、奉公に出したのです。
奉公は、住込み働きで、お盆と正月以外には、休みがありません。
お盆が過ぎれば、正月までは、実家に戻れません。
盆が来たとて 何嬉しかろ
かたびらは無し 帯は無し
また、口減らしということで、実家を出されたのです。
久し振りに家族に会える、嬉しい気持ちとうらはらに、満足な食生活もしていない実家の家計の窮状を思えば、衣服の新調どころか、ご馳走なども望めないことだったでしょう。
この子よう泣く 守をばいじる
守も一日 やせるやら
子守奉公は、子守をする家庭によって、子どもの扱いやすさによって、多少の差はあるようですが、やはり大切な子どもを預かっている身としては、泣き続けられては、子守として、失格と言われて、年季明けを待たずに、里に帰らされることになります。
はよも行きたや この在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
向こうに見えるは 親のうち
受け入れる余裕のない里に帰ることは許されませんから、我慢に我慢を重ねて、年季が明けて、実家に戻れる日を待ち望んで、子守を続けるしかないのでしょう。
みずから歌う子守唄に身を委ねながら…。
はるか向こうに見えるはずの、輝く明日へのひそかな夢を見ながら…。
この唄、「竹田の子守唄」は、フォークグループの「赤い鳥」が1969年(昭和44年)に開催された「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で演奏して、フォーク・ミュージック部門でグランプリを獲得しました。
なお、1971年(昭和46年)にリリースされたシングルは、A面にこの唄、のちに音楽教科書にも採用され、合唱曲の定番となる「翼をください」がB面に収録されています。
もともとは、「橋のない川」という部落差別を扱った小説の舞台化のときに、その音楽担当者が京都市伏見区竹田地区で採集した民謡を編曲したのが原曲と言われています。
それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団によって歌われ、さらにうたごえ運動などにより広まって、フォークグループに伝わり、「赤い鳥」も歌うようになったとのことです。
しかし、リリースされて大ヒットしたのち、80年代に入る頃になると、あれほど流れていた「竹田の子守唄」が、ラジオやテレビの放送ではピタッと流れなくなりました。
ちょうど、フォークからニューミュージックの過渡期でもあり、歌は世につれ、世は歌につれ、はやりすたりは世の常と、マスター(館長)としては、深くも考えていませんでしたが。
実は「竹田の子守唄」は、被差別部落に伝わる「守子唄」が原曲であり、「在所」という被差別部落を指す歌詞がある等の理由からか、事実上の放送禁止歌的な扱いを受けて、ラジオやテレビで放送されなくなったというのが背景にあったようです。
部落問題については「寝た子を起こすな」という意見があり、何も知らない人にまで、わざわざ部落問題のことについて知らせる必要はなく、そのままそっと放置しておけば自然に差別は解消していくものだ、という主張がなされて、部落問題については、触れない、語らない、知らせない、というような考え方が、根強くあります。
また、部落問題に対しては、糾弾や非難されることのないように、なにか起こる前に、「臭い物に蓋」「お茶を濁す」「誤魔化す」ような、不実な対応や、「長い物には巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てぬ」ような、その場しのぎの対応も多くなされていました。
このような扱いを受けた曲に、ほかに岡林信康の「手紙」という曲があります。
この曲は、被差別部落に生まれたこと理由に結婚を反対され自殺した女性の実話をもとにしたものですが、部落差別の不当性を訴え、差別がない社会を願う内容です。
しかし、部落解放を主張するセクト(党派)からも、この「手紙」という歌が、差別問題を取り上げたことは意味があるものの、結果的に差別によって自殺する内容とであり、いわゆる差別に対する敗北主義を認めることになる、という主張があったと記憶しています。
おそらくは、「竹田の子守唄」にも、部落差別に対して闘争的な姿勢の描写は見られず、差別に対するぬぐいがたい諦念感と、ノスタルジックな郷愁感だけの、「反革命」的な敗北主義の歌であるとの主張もあったのかもしれません。
また、京都市伏見区竹田地区のご当地の方々が、「竹田の子守唄」の放送等によって、マスコミの取材等で騒がれるのを望まなかったというような事情もあったようです。
しかし、「竹田の子守唄」には、この子守が、なぜ子守をするようになったのか、なぜ子守を嫌がるのか、嫌ならほかに仕事は探せなかったのか、盆が来てもなぜうれしくないのか、そういった歌詞に秘められた背景に触れることができるはずです。
そして、子守奉公、年少者の子守労働の過酷さや、出自による就職差別、地域の貧困の実態などを考える機会を与えるものだととらえれば、ことさらに、この「竹田の子守唄」について、自主規制、放送自粛をする必要はなかったのではないでしょうか。
しかし、放送されなくなったのは事実でも、明確に放送禁止となった証拠もなく、なぜ放送されなくなったのか、そしてまた、放送されるようになったのか、真相は藪の中です。
いずれにしろ、今回は、まずは「竹田の子守唄」の素朴なメロディーや、美しいハーモニーを聴きながら、楽曲そのものを純真に楽しんでください。
現実の生活の中で、さまざまに、疲れて傷ついた心身を癒してください。
そして、その上で、音楽を愛する者として、こんな良い唄が一時期でも聴かれなくなったことがあったことだけは、記憶にとどめておくべきだと思います。
唄が自由に歌えない社会、唄を自由に聴くことができない社会というのは、どんな時代であっても、どんな理由をつけても、間違っている、あってはならないことだと思います。
(初稿2014.7 未改訂) |