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最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると 聞いた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 灯をともす
覚えているでしょうか。
こんなCMがあったことを…。
東京駅14番線ホームから
愛・希望・孤独・哀しみを乗せて
テールランプが遠ざかる
日曜日 東京駅発新幹線最終便
またの名を…
シンデレラ・エクスプレスと呼ぶ
JR東海のCM 1987年
全国放送網で流れていたのかは不明なんですが、国鉄(日本国有鉄道)が民営化されて、JR(Japan Railways)となり、東海道新幹線が、JR東海として発足した直後に放映されていたテレビCMです。
イメージソングは、同名の曲を、ユーミンこと松任谷由実さんが歌っていたはずなんですが、なぜかあまり印象に残っていません。
愛・希望・孤独・哀しみを乗せて…という淡々としたナレーションの印象の方が強かったからでしょうか。
日曜日の東京駅21時00分発新大阪駅23時43分着の東海道新幹線最終下り「ひかり289号」、それがシンデレラ・エクスプレスです。
終着の大阪が午後12時前ですから、12時前までに戻らないと、魔法が解けるというシンデレラの物語になぞらえ、週末を過ごした恋人たちの見送りシーンと融合させた、さすが日本を代表する広告代理店の大手である電通が作った名作CMです。
ところで、当該列車には乗ったことはないのですが、東京出張の帰りの最終電車近くの便になると、遠距離恋愛らしき恋人たちが、ホームの片隅で、名残惜しそうに、ときに涙ぐんでいるようなシーンにはなんどかお目に掛かったことがあります。
当時は、まだ人目を気にしてか、今のように、抱き合ってぶっちゅーなんてことはせずに、手をつなぐ、肩を抱くというような、微笑ましいものでした。(笑)
あっ、念のため、いっておきますが、マスター(館長)は、当事者にはなったことはありません。(笑)
何も思わずに 電車に飛びのり
君の東京へ東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました
東京一極集中という言葉があります…いや正確には、ありました、という方が正確なのかもしれません。
人みな東京へ、東京へ、いや人だけではなく、政治・経済・情報などの社会における資本・資源やその活動のすべてが、みな東京へ、東京へ、東京にだけ集中し、その弊害が社会問題化しました。
東京一極集中が顕在化した1980年代後半の1987年(昭和62年)には、その是正を盛り込んだ、「多極分散型国土の形成」を基本理念した第四次全国総合開発計画、いわゆる四全総が2000年(平成12年)を目標年次として策定されました。
我が国において、東京地域一極にだけ、集中させるのではなく、第二の都市、大阪をはじめとして、他の地域の核となる都市を中心にして多極化させ、国土の均衡ある発展を目指す中長期に渡る国土計画としてまとめられたものでした。
しかし、その後の政治・経済の国際化の急速な進展は、グローバルな視点から日本も世界の一地域としてみれば、国際的な競争力を高める意味からも、日本を代表する首都東京に、政治・経済・情報などの中枢機能を集中させる方がやはり効率的です。
1990年代前半のバブルの崩壊は、さらにそれに拍車をかけたような気がします。
特に大阪は、江戸時代から、天下の台所として、長い間、全国二位の地位にありましたが、東京が一極集中するとともに、各地域圏域の発展により、相対的に地盤低下をして、2006年(平成18年)には、人口においても、神奈川に抜かれてしまいました。
東京都と、埼玉県、千葉県、神奈川県の一都三県への集中は、人口においても25%を超えており、我が国人口の四分の一が東京圏にあるという、もはや他の圏域の追随を許さぬ状況になっています。
ちなみに余談ながら、大阪は全国一面積が狭い都道府県でしたが、関西国際空港などの大阪湾部の埋め立てにより面積が増え、香川県を抜いてしまった結果、狭小面積では二位になりました。
大阪が、いまだに一位を維持できそうなの、ひったくり件数や駐車違反件数、生活保護率、たこ焼き器保有率くらいではないでしょうか。(笑)
マスター(館長)のふるさとながら、なんか、情けない話しです。(T^T)
東京へは もう何度も行きましたね
君の住む 美し都
東京へは もう何度も行きましたね
君が咲く 花の都
東京一極集中という言葉を思い出したのは、マスター(館長)がちょうど就職して、社会に出た当時が、そのような話しが、会議などでさかんに議論されていて、記憶に残っていたからです。
幼稚園から大学まで、ずっと大阪でしたし、東京方面に親戚、友人、知人がいるわけでもなく、東京といえば、やはりテレビの中に存在している都市でした。
就職したのも、大阪ローカルな法人で、東京に本社を置いたり、工場や営業の基盤を持っているわけでもないので、関連性も薄く、直接的には、東京へ出張することは他の企業ほどに多くありません。
しかし、それでも、多少、なにかと関係ある部署もあったりして、はじめて仕事で東京に行ったのは、就職して四年目、初の異動後のことでした。
これがはじめての上京…ではなく、大学生の頃に、ボランティア関係のことで、東京の人と交流することがあって、出かけたことはあります。
東京の…確か、埼玉というところでした。(笑)
埼玉は東京じゃない、と抗議がきそうですが、大阪では、埼玉も千葉も横浜も、東京です…東京ディズニーランドともいいますしね。(笑)
まあ、大阪空港や阪神甲子園球場が大阪にあると思われているのと同じなんですけどね。(笑)
そのときは、東京駅まで迎えに来てもらい、車での移動だったのですが、街のでかさと緑の多さに圧倒された記憶があります。
出張では、日比谷・霞ヶ関周辺に行くことが多いのですが、大きな公園と大きなビルに、地下鉄の都営やメトロの違いなどに、とまどうさまは、まさに、松山千春っぽいです。(笑)
ただ違いは、大阪人の厚かましさ、どこそこに行くには、どれに乗ってどこで降りたらええんでっしゃろかと、誇張した大阪弁で訊きまくります。(笑)
たまに同じ田舎者に訊いてしまって、不確かな情報を教えてもらうこともあるので、できるだけ何回も複数に訊きまくります。(笑)
東京方面の方で、大阪弁で道を訊ねて声をかけてくる中年男性を見かけたら、それはマスター(館長)ですから、親切にしてね。(笑)
君はいつでも やさしく微笑む
だけど心は むなしくなるばかり
いつか二人で 暮らすことを夢みて
今は離れて 生きて行こう
君に笑って さよなら言って
電車は走る遠い道を
ああ今すぐにでも 戻りたいんだ
君の住む町 花の東京
関西周辺の人は、東京へ初めて行ったのは、修学旅行でという人も多いでしょうね。
関西方面から東京への修学旅行専用列車として、1959年(昭和34年)から1971年(昭和46年)まで走っていた「きぼう」号で行ったという人も多いはずです。
でも、マスター(館長)は、残念ながら、その「きぼう」号に乗っていません。
いや、もう新幹線になっていたからね…なんて、姑息に年をごまかそうというわけではありません。(笑)
中学の同級生たちは、「きぼう」号に乗って、東京へ修学旅行に行きましたが、マスター(館長)は連れていってもらえませんでした。
病気のある者は参加させないという学校の判断によるもので、確かに中学に入っても、一年生のときは、体調を崩して入院したり、病欠が多かったのです。
でも、二年生になってからは体調も良く、夏の林間学校には、さすがに登山だけはやめましたが、あとは無事に参加できたので、修学旅行にも、体調さえ良ければ参加できると思っていました。
その林間学校に連れて行ってくれたのは、学年主任で、国語の担任でもあったK先生でした。
柔道部の顧問で体育会系のK先生は、一年のときから教科担任で、国語では結構目立つような成績だったぼくを気にかけてくれていて、林間学校の登山も参加したかったら参加して、途中でしんどくなったら、おぶってやるよ、とまでいってくれていました。
だから、中三になってK先生がクラス担任になって、そして修学旅行準備係にも選ばれたので、すっかりその気になっていたのでした。
しかし、放課後、職員室に呼ばれ、K先生から、やはり修学旅行には参加させられないと、職員会議で決定されたことを言い渡されました。
K先生は、職員会議で、ぼくが一年のときの担任のT先生とともに、連れていくように主張してくれたのですが、最終的には、病気の者は参加させられないという校長の判断ということでした。
K先生は、教育委員会にも問い合わせてくれたのですが、教育委員会は、現場責任者の校長の判断が優先されるという答えだったそうです。
旅先で具合が悪くなれば、足手まといになるし、なによりも、その責任を問われるのを、校長も教育委員会も、回避したいというのが本音だったのでしょう。
でも、その本音を隠して、生徒本人の病気と体調を考慮して、教育的配慮から判断した、という表向きの扱いが、ぼくには不満で納得できませんでした。
ノーマライゼーションの理念も、言葉すら知っている人もほとんどいない時代でした。
幼い頃から病状を見ている主治医に相談すると、主治医は、体調も良く、この程度の旅行ならば支障がなく、万一に備えて、東京の病院にも緊急搬送、治療の連絡体制を整えておく、とまで診断書に書いてくれました。
その診断書を携えて、母親と一緒に学校に行きましたが、事前に連絡していたにも関わらず、校長は会議のために急遽不在ということで、結局、いつものとおり担任との三者面談になりました。
母親は、小学校のときの修学旅行も連れていってもらえなかった我が子が不憫だったのでしょう。
万一の場合でも責任は一切学校にないという念書を書くからといいましたが、担任は首を縦に振らず、旅行に親が付き添っても駄目か、と食い下がりましたが、担任は困り果てた顔を見せただけでした。
ぼくとしても、母親と一緒の修学旅行では嫌でしたし、なによりも母子家庭の母親を、会社を休ませてまで付き添わせるのは忍びなく、諦めざるを得ませんでした。
母親は、違うときに家族で東京に行こうと言ってくれましたが、東京に行きたいわけではなく、修学旅行としての東京に行きたかっただけで、もういいから、というのがやっとでした。
修学旅行の説明会は苦痛でした。
首をうなだれて、つまらなさそうにしているぼくを見咎めて、K先生は、ぼくを呼び出しました。
「Nよ、先生も気持ちは分かるけど、そんな暗い顔をしていたら、友だちに心配をかけるだけやないか。」
ぼく自身も、友だちの気遣いには気がついてたので、そのことには素直にうなづきました。
安心したのか、K先生は言葉を続けました。
「修学旅行に行けないのは、Nだけやないんやで。○○も行けないんや。それも、彼の場合には、修学旅行の積み立てができない経済的な事情なんや。もっと辛いはずやが、でも、○○は明るく振舞ってるやろ。」
K先生としては、孤立疎外感を漂わせているぼくに、なぐさめと、自分のことばかりでなく視野を広げて、人のことも思え、ということだったのでしょう。
でも、ぼくは、理屈として理解はできていても、心情的には、まだ納得できなかったところに受け止めた言葉だったので、反発してしまいました。
「経済的な事情で行かれへん生徒がいててええのんですか。平気なんですか。義務教育ってなんなんですか。修学旅行ってなんなん。学校の行事とちゃうん。教育の一環とちゃうんですか。」
口から出た反抗の言葉が、さらに増幅して、生意気な口ぶりで責め立てました。
「先生もお金を積み立てて、休暇をとって修学旅行に行ってるんですか。生徒を連れて行くのが教師の仕事と違いますか。身体的とか経済的とかで、行かれへん生徒がおらんようにするんが、先生ちゃうん。それが教育ちゃうん。いつも、みんな仲良くせなあかん、差別したらあかんなんて、いうてて、いうてることと、やってることと違うやん。」
思わぬ反撃だったのでしょう、K先生は、黙ってぼくを見つめました。
「ふっ…、こんなんゆうても無駄なことですね、校長が、教育委員会が、って、先生も、結局、サラリーマンのでもしか先生やったんやもんな。」
悔し紛れに悪態をつくぼくを、にらみつけて、K先生は、こぶしを握りしめました。
そして、悲しそうに、振り絞るような声でいいました。
「N、なんで、なんで…、分かってくれへんねん。Nなら分かってくれてると思とった。どんなに、オレもクラスみんなを連れていきたいことか…。Nが…おまえが病気やなかったら、殴ってやりたい…。」
そして、目からぽろぽろと流れる大粒の涙を、汗をぬぐうように、こぶしで拭きました。
その姿に、気が動転したぼくは、逃げるように、その場を去りました。
先生のこぶしと涙を、脳裏に交互に浮かべながら。
そのあと、ぼくは、修学旅行準備係として、2年の林間学校のときに作って好評だった歌本の修学旅行用の原稿を作りました。
「風」「遠い世界に」「花嫁」「戦争を知らない子供たち」「あの素晴しい愛をもう一度」…手書きのイラストも入れたガリ版刷りの歌本。
そして、その歌本が、みんなの旅行カバンに入って、修学旅行に行きました。
お土産にもらった東京タワーの置物。
努力と書かれてありました。
人生には、努力してもどうにもならないことがある。
東京タワーはそう教えているように見えました。
東京へはもう何度も行きました。
それも仕事で何度も行くことなんて、あの頃のぼくからすれば、想像もできなかったことです。
東京へはもう何度も行きました。
でも、東京に行ったことを自慢げに報告したら、きっと嬉しそうに聞いてくれるはずのK先生は、すでにこの世にいません。
10年ぶりの修学旅行をしようかと、ハトバスで東京を案内してくれた幼なじみの親友も、すでに東京の空に煙となって消えていきました。
でもまたその東京に、ぼくは何度か行くでしょう。
愛・希望・孤独・哀しみを乗せて…。
東京へはもう何度も行きました…。
東京へは もう何度も行きましたね
君の住む 美し都
東京へは もう何度も行きましたね
君が咲く 花の都
マイペースの「東京」、内容としては、東京に住む彼女の元に、電車で会いに行くという、遠距離恋愛という言葉がまだ無かった時代の、時代を先取りしたような遠距離恋愛の歌です。(笑)
マイペースというグループは、この「東京」の作詞を担当された、森田貢さんに、伊藤進さん、根次男さんの三人のメンバーで、ともに秋田県出身。
マイペースは当時、名古屋で活躍していましたから、この「東京」に登場する彼は、名古屋から、ういろうときしめんを持って、やっとかめ(久し振り)、なんていいながら、東京の彼女に会いに行ってたのかもしれませんね。(笑)
この曲は、マイペースのデビュー曲で、一年近くかけてのロングセラーの100万枚ヒット、だから、ある意味では、多くの人の記憶にある歌ともいえます。
現在もこの「東京」の作詞者の森田貢さんが、別メンバーとですが、マイペースとして活動されています。
(初稿2006.10 未改訂) |