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津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みづ雪
かた雪
ざらめ雪
こほり雪
(東奥年鑑より)
「津軽」−太宰治
マスター(館長) は、生まれも育ちも大阪市内で、そこでは、雪が降ること自体がまれであり、さらに積もることは滅多とありません。
だから、子供のころの雪の想い出は数えるほどしかありません。
それも、雪の降る季節柄ですから、病弱ゆえに体調を崩していることも多くて、ガラス窓の向こうで、落ちては溶けて、儚く消えていく雪を、うらめしく見ていたような、切ない想い出の方が多いです。
伊勢正三さんが作り、イルカさんが歌って、大ヒットした「なごり雪」という名曲は、東京で見る、落ちては溶ける雪のことを歌っていますが、確かに、大阪よりは、東京の方が雪国のような気がします。
そんな気がするのは、弥生3月の頃の東京出張の際に、何度か雪に逢ったからですが…、あくまで意見には個人差があります。(笑)
蕭々と吹く風に雪煙
土蜘蛛の如くうずくまる林檎の樹
寂しさに立ち枯れたみちのくの
名も知らぬ木に氷が華と咲く
しかし、ほんとの雪国の雪は、そんな感傷的なものではないようです。
粉雪やパウダースノーと言えば、ロマンティックな感じもしますが、なんのことはない、極寒の氷点下における雪は、それこそ、握っても雪玉や雪だるまにならず、吹けば飛ぶような雪質です。
特に、みちのく青森県の津軽地方の冬の雪は、地面に積もった雪が強風で舞い上がる地吹雪(じふぶき)というのがあって、まさに凍った大地から、雪の煙が舞い立つがごとくに見えるからでしょう。
そして、すっかりと葉を落とした林檎の樹は、あたかも細く伸びた枝を縮めることもできずに、厳しい雪の厚化粧に耐えて、ただ凍えそうに、うずくまるような土蜘蛛のようでもあるのでしょう。
さすがに、津軽といっても、津軽平野の地域は、木々に雪が積もり、枝が雪に隠れてしまうようなことはあっても、氷が華と咲いている木とまではいきませんが、木に氷の華といえば、津軽の東南東方向の青森市の南側に位置する八甲田山の樹氷が有名です。
妻の実家の青森県むつ市への正月の帰省の折に、義弟に八甲田山の酸ヶ湯温泉を案内してもらったのですが、そのときに見た、自然の造形美である見事な樹氷群はまさに息を呑むような光景でした。
八甲田山といえば、日露戦争の2年前、1902年( 明治35年)1月に起こった、陸軍の訓練中に、記録的な寒波による吹雪で、210名中199名が死亡した雪中行軍遭難事件で知られていますが、標高として1585mで、高山としてはそんなに高い方の山ではありません。
そういえば、意外にも、積雪量としての記録は、東北や北海道ではなく、岐阜と滋賀県の境にある標高1377mの伊吹山だそうで、1927年(昭和2年2月に、1182cmの積雪を記録しており、それが世界の観測可能地点の中では、現在でも世界一の記録らしいです。
確かに、伊吹山の一等三角点が置かれている頂上は滋賀県米原市にあり、冬場に東海道新幹線を利用された方は、米原駅付近で、雪のため徐行する新幹線に乗られた経験がおありかもしれません。
また、伊吹山の山麓には、天下分け目の戦いとして有名な古戦場の関ヶ原があり、そして、伊吹山の山上には、もちろん、伊吹山スキー場があったのですが、運営会社の経営難と、近年の地球温暖化や、スキー人口の減少の影響もあって、近年、閉鎖されたとのことです。
思えば あなたとの心の道行きは
荒海に 揺蕩二つの小舟の様に
櫂を失くして流されて
行方も知れずあてもなく
引き返すにも進むにも
浮かぶ瀬もなく
「メロスは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」
と、の書き出しで始まる「走れメロス」は、文豪、太宰治の名作で、我が国の中学校のほとんどの国語の教科書に採用されているそうですから、学校で習ったという人も多いでしょう。
太宰治は、1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木(かなぎ)村(現・五所川原市)に生まれ、本名は津島修治といいます。
余談になりますが、本名の津島姓のルーツとしては、韓国との国境である九州の玄界灘に浮かぶの孤島、対馬国(現・長崎県対馬市)から、日本海を渡って津軽に定住した一族とする説もあり、津島家の菩提寺の南台寺の墓碑も、祖先は対馬姓となっているそうです。
太宰治は地元の大地主の家に生まれ、青森県立青森中学校(現・県立青森高等学校)から旧制弘前高等学校文科(現・弘前大学)に進んで、東京帝国大学(現・東京大学)文学部仏文学科に入学しました。
小説家になるため井伏鱒二に弟子入りし、この頃から太宰治の筆名を使うようになり、大学は留年を繰り返して中退、その後、自殺未遂、心中未遂を繰り返しながら、作家生活を続けるものの、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で入水(心中)自殺、享年38歳でした。
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
「勧酒」−于武陵 −井伏鱒二訳詩
遺体が発見されたのが、6月19日のため、太宰治が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、この日を桜桃忌としています。
滔々とゆく河に泡沫の
はじける瞬の儚さを
哀しいと言わず愛しいと
答えたあなたの優しさが胸を突く
ちなみに、太宰治の父親、津島源右衛門は、貴族院議員を務めた地元の名士で、五所川原市に隣接する木造(きづくり)村(現・つがる市)出身ですが、私事になりますが、縁あって結婚したマスター(館長) の妻の母親つまりは義母の出身地が木造だそうです。
もひとつ、ちなみに、青森県の北部地域は、西側が津軽半島で、東側が、半島の形が「鉞(まさかり)」の形に似ている下北半島で、妻の実家は、下北半島のむつ市にあるのですが、同じ青森県人であっても、津軽の人は津軽衆と呼び、南部下北の人は南部衆と呼ばれ、方言についても、津軽弁と南部弁・下北弁に分かれるようです。
気候風土としても、津軽地方は冬場の雪が多いが、米どころであり、りんご農家も多いのに、南部下北地方の冬場は雪は少ないものの、夏場でも冷たく湿った風のやませ(山背)が吹いて、農作物の冷害の原因となり、米作りやりんご作りには不向きな土地柄ですが、むつ湾のホタテ養殖や大間のマグロなど漁業が盛んです。
ところで、マスター(館長)と太宰治との出会いは、中学1年生の国語の教科担任だったK先生が、大好きな作家だということで紹介し、いつも国語の授業時間中に、熱く語っていたために、K先生と波長が合っていたマスター(館長) も、いつしか影響を受けていました。
また、中学1年生のときの担任で、社会科教諭のT先生が、マスター(館長) が社会科研究部の研究テーマに戦争を選んだときに、太宰治が、戦時中に多くの作家が、時流に迎合した国策文学、御用文学作品を書いていたのに、太宰治は「走れメロス」や「津軽」、「お伽草紙」、「新釈諸国噺」などの作品を書いていたことなど教えてくれました。
太宰治の好んだ退廃的な作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されていて、また、心中自殺をしたために、なんとなく暗いようなイメージがありますが、残された太宰治の有名な写真のポーズは、敬愛していた芥川龍之介の有名な写真のポーズを意識して真似をしていて、「人間失格」と言いながら、なんとなくミーハーっぽい人間くささが感じられます。
憧れの第一回芥川賞候補にもなりましたが、選考委員の川端康成に、「作者、目下の生活に厭な雲あり」と、私生活の素行を取り上げられて落選し、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸誌で反論するものの、その後も受賞の夢が絶ちがたったのか、川端康成に受賞懇願するものの、結局、受賞できなかったようです。
大阪市北区の天満に生まれて、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が、新潟県の越後湯沢をモデルに「雪国」を描いており、その川端康成に、厳しく遇された太宰治が、雪国の津軽で生まれたというのも、なにか因縁めいています。
津軽に 訪れる春まだ遠く
心の 道行く先はなお遠く
凍てつく指に耐えかねて
ふとあなたの名をくちずさめば
降りしきる雪の彼方から
幽かな海鳴り
まだまだ 書きたい事が、あれこれとあつたのだが、
津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい
語り尽したやうにも思はれる。
私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。
さらば読者よ、命あらばまた他日。
元気で行かう。
絶望するな。
では、失敬。
「津軽」−太宰治
この曲は、1983年(昭和58年)11月にリリースされた、さだまさしさんのソロ後8枚目のアルバム「風のおもかげ」に収録されています。
「子供の頃僕は東北が大嫌いだった。じめじめと凍える土地、日陰の町。そんなイメージが悲しすぎて耐えられなかったのだ。それは僕が九州生まれだからだったろう。東北はあまりにも遠すぎ、さいはての印象しか持てなかった。…中略…高木恭造さんの津軽方言詩集『まるめろ』に出会った時、僕は津軽に恋をしたのかもしれない。…中略…いつか津軽が歌えたらいいと思っていた。だが手に負えなかった。…中略…僕は生まれて初めて、自分の歌の中で旅人になった。津軽はやはり遠かったのだろうか。…中略…多分僕はこれから今までよりも深く津軽を見つめていくのだろう。そうして、死ぬ迄に僕の内に僕の津軽を発見するのだ。ぼくは今ようやく、津軽の入口に立てたのかもしれない。」
かなり長めに、さだまさしさんのライナーノーツを、引用させてもらいましたが、それは、「東北が大嫌い」という、東北人ならずともかなり衝撃的な表現であったことともに、ここまで正直に、誤解を畏れずに、包み隠さず、心情を吐露した、さだまさしさんのひととなりが理解できると思ったからです。
ちなみに、さださんの話にある高木恭造さんのことは、元青森放送(RAB)のアナウンサーの伊奈かっぺいさんも、よく話をされていて、マスター(館長) は、帰郷の際によく利用した、寝台特急「日本海」での子守唄代わりに、伊奈かっぺいさんのカセットテープを聞きながら、津軽弁をマスターするとまではいかないけれど、耳になじませました。
枯れ草の中の細い路(ケド)コ行たキア、
泥濘(ガチャメキ)サまるめろァ落(オヅ)でだオン。
死ンだ従兄(イドゴ)ァそこで握飯(ニギリママ)バ食てだオン。
まるめろバ拾(フラ)ウどもても如何(ナンボ)しても
拾(フラ)えネンだもの…
ああ故郷(クニ)モいま雪(ユギ)ア降てるべなあ。
まるめろ ─ふぢァ死ぬ時(ドキ)の夢─ 高木恭造
ちなみに、まるめろとは、バラ科マルメロ属の落葉高木の果樹の果実で、ボケ属のカリンに似ているが、まるめろの語源は、マルメロ (ポルトガル語: Marmelo) に由来し、生食に適さないため、砂糖漬けのような加工食品にするため、これが砂糖漬けの果実などの英名 Marmalade、つまりはマーマレードの語源ともなったようです。
まるめろの実が実る頃
お前は嫁いでゆくのです
色深めるななかまど すてきな朝です
「秋の虹」−さだまさし
津軽には 忘れがたい人があった。
突然 私の目の前に現れたその人は、瞬く間に
私の心を奪い、謎の言葉を言い置いて 消えてしまった。
消息は知れず、霧の中に吸い込まれたかのように
文字通り姿を消したのだった。
彼女は、美しく桜の香りがして
綺麗な津軽弁と東京弁を話した。
「ないねばすげねすてな…」
最後の声を、今でも覚えている。
「空蝉風土記−津軽・人魚の恋」−さだまさし
これは、「小説新潮」に隔月で連載されている、さだまさしさんの小説の一作品ですが、これは、井原西鶴の「武道伝来記」所収の戯作小説「命とらるる人魚の海」と、これをもとにした、太宰治の「新釈諸国噺」の「人魚の海」を意識したものに違いありません。
さだまさしさんの「死ぬ迄に僕の内に僕の津軽を発見するのだ。ぼくは今ようやく、津軽の入口に立てたのかもしれない。」という言葉が、やはり、決して、大袈裟な虚言や、その場逃れの妄言ではなかったというのが、何十年もかけての実証したことだったんだという感じです。
それを記念して、多少なりとも、津軽みちのく青森に有縁となったマスター(館長) として、さだまさしさんの「津軽」のMIDI化を試みながらも、障壁に辟易しながら、遅々として進まぬことに、「天は我を見放したか」と、思いながらも、ようやく完成させて、公開しました。
全世界、いや全宇宙においてさえも、さだまさしさんの「津軽」をMIDIで聞けるのは、青春音楽館をおいてほかにありません。(笑)
ちなみに、これはマスター(館長) の独断というか、偏見というか、単なる思い込みかも知れませんが、1984年(昭和59年)に、「Glass Age」というアルバムの中の「寒北斗」という曲は、歌詞内容とメロディーラインからして、マスター(館長) としては、今回の「津軽」という曲から生まれた曲ではないかと思っています。
ちなみに、津軽半島と対をなす、青森県の下北半島のむつ市には、福島県の会津藩が、「斗南藩」として封じられ、「斗南」とは、「北斗以南皆帝州」に由来して、つまりは、北の空に凛として輝いてる北斗七星の南は、等しくすべて帝(天皇)の国という意味、つまりは「津軽」と「寒北斗」は対ではなかったかと、いうことを指摘しておいて、青春音楽館さだまさし自主研究会の講義を終えておきます。(笑)
(初稿2012.3 未改訂) |