|
「謝罪」と「賠償」という言葉があります。
もちろん、このふたつの言葉は、類語でも対語でもなく、まして四字熟語でもなく、おのおのに独立した言葉であって、また違った概念を表す言葉であるわけです。
しかし、近年は、「謝罪と賠償」という組み合わせのフレーズで聞くことが多くなりました。
そして、このフレーズについては、政治的、または外交的な問題に絡んでよく使われることが多いのは、多くの方がご承知のとおりかと思います。
しかし、現在のマスター(館長)の知識や見識でこれを語るには、あまりに難しく、ここは基本に立ち返って、もっと身近な話題や考え方を例にあげて、語りたいと思います。
まず、謝罪いうのは、自己の非を認めて、罪や過ちを詫びて、相手の許しを請うことです。
そして、もちろん問題なのは、まず、この非を認めて、ということにあります。
つまりは、非を認めるということは、自己に責任があると認めることとされるからです。
そして、謝罪は、相手の許しを請う、ということですから、許しを請う相手から、実際に、許しを得るに足ることをしなければ、謝罪にならない、ということになってきます。
お詫びしました、謝りました、という言葉や態度だけでは済まない、とされる所以です。
次に賠償とは、与えた損害を償うということです。
そして、損害を償うということは、損害を与える以前の状態に戻すことを意味します。
すなわち、損害を与える以前の状態、損害が無かった元の状態に戻す、回復させる、いわゆる原状回復という手法が、本来の賠償の基本となります。
もちろん、損害には、金銭では贖(あがな)えないものがたくさんあります。
生命を奪われたり、身体に障害を加えられたり、健康を損なわれたり、あるいは名誉や尊厳などを傷つけられたり、これらの損害は、いちど傷つけられ、失われたならば、以前の状態に回復することは、不可能または困難に近いものがあります。
そういうことから、これらの損害を、ともかく金銭に換算して、賠償の程度を決めざるを得ませんから、いわゆる金銭賠償が法的な賠償の基本とされるところです。
ところで、いわゆる法的な紛争解決を基本とする訴訟社会においては、謝罪をすれば賠償する責任を認めたことになるとして、容易に謝罪をしてはならないとされています。
そして、このことが、安易に謝ってはいけないという、考え方につながっています。
もちろん、この考え方は、相手の勢いに押されて、無責任に、あとさきを考えずに安易に謝ったりするべきではないという意味では正当であるのですが、これをすべての事案事象に対する金科玉条にしてしまうと、さらに事態をこじらせてしまうことになります。
つまりは、謝罪せよとする相手の主張をよく聞いて、相手が何に不満を持って、何を求めているのかを把握することがなによりも大切なのに、相手の勢いに対抗するために、聞く耳を持たずに釈明だけをして、反論をするばかりで、頑なに謝罪することを拒んだりして、より関係を悪化させることがあります。
身近な例として、商品やサービスに対する苦情を考えてみましょう。
現代社会では、生活を営む上で、どうしても、日常的に、他者の作った商品を購買したり、他者からのサービスを受けたりすることが多くなるのですが、その商品に欠陥があったり、粗雑なサービスがあったりすると、それに対して苦情やクレームをつけることになります。
この場合、購入した店やメーカー、あるいはサービス事業者に、苦情やクレームを申し立てることになりますが、最近は、お問い合わせ窓口、お客様窓口、コールセンターなどを、外部委託化して、専門的に受付させる官公庁や企業なども増えてきています。
これについては、責任の所在を曖昧にし、責任逃れにするだけという批判もありますが、多くの顧客や住民といった相手方からの苦情やクレームについては、業務多忙な現場にいる店員や社員、あるいは職員などが個々に対応するよりも、迅速に対応することができて、また第三者的な立場から、より丁寧な対応ができるというメリットはあります。
もちろん、このような場合でも、商品やサービスにおける明白な欠陥や瑕疵によって、被害、損害が発生したことが争う余地がない場合にはともかくとして、商品の欠陥であるのか、もともとの商品の仕様であるのか、あるいは使い方や、使用方法の誤りによるものではないのか、あるいは、期待され提供されるべきサービスの内容や質、程度がどれくらいなのか、基準が曖昧な場合には難しい問題になります。
ともかく、憤慨し、激昂して、苦情、クレームを申し立て、性急に、謝罪と賠償を求める相手側に対して、それを執拗かつ理不尽な苦情、クレームとして受けとる側では、双方が感情的になりがちであることは、経験的にも理解するところです。
しかし、ここは受け取る側としては、落ち着いて対応する必要があります。
そして、商品を製造したり、販売したり、サービスを提供したりした側としては、相手側が有する商品やサービスへの不満や不快感に対して、その不満や不快感を持たせたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしましたと、素直にお詫びして謝罪するのは、何も賠償責任に直結することではないと思います。
この場合の謝罪は、あくまで商品やサービスに対して、不満や不快感を持たせたことについて、そのこと自体は主観的であれ相手が主張している以上は争えない事実であり、たとえ、不満や不快感が、相手の一方的な思い込みや妄想、あるいは場合によっては、不当な、過大な要求に起因するものであっても、その不満や不快感に対して、お詫びする、謝罪するということは、決して、人として嫌うべきものではないはずです。
決して非そのものを認めるわけでなく、相手が非があると主張すること、することに至ったことに対しては、まずはお詫びして謝罪したあとで、明確にして客観的に、非はないと主張していけば良いのです。
もちろん、謝罪したのは非を認めた、責任を認めたからだろう、だから早くきちんと賠償をしろ、と主張されるおそれも十分にありますから、その点は誤解されないように、何に対しての謝罪か、要点をきちんと押さえておく必要があります。
具体的に言えば、苦情やクレームについて、わざわざ来訪していただいて、あるいはお手紙をいただいて、お忙しい中お電話をいただいて、お手数をおかけしたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました、と、お詫びします。
あるいは苦情やクレームなどの初期対応した者の説明や対応について、無礼な発言を受けた、横柄な態度を感じた、と主張されるような場合もありますが、無礼な発言と受け取られるようなことを申し上げたことについては、また横柄であるというような印象を与えたことについては、申し訳ありません、失礼をいたしました、と謝罪することもあります。
あくまで、なにに対してのお詫びかを明確に示しながら、真摯にお詫びすることは、紛争を早期に集結させることにもつながり、またのちの紛争を防ぐ意味でも、謝罪は大切なことだと思いますし、またその謝罪というものは、賠償の計算とは無関係であるべきと思います。
そして謝罪は、相手の状況を理解したうえで、相手の受け止め方をおもんぱかってすることこそが重要であり、そしてそれは、相手と同じ気持ちになるという意味の「同情」を踏まえたもので、その気持ちをなぐさめる、慰謝するためにしているのだという目的を意識してしなければ、謝罪は単なる上っ面の言葉だけになってしまいます。
もちろん、その場しのぎの、相手の顔色を伺うだけの謝罪であってはならないことは言うまでもなく、また相手からのともかく誠意を見せろという不当な要求に応じるものであってはならないことは言うまでもなく、まして何らかの他の意図や目的を持って謝罪をするというのはもっての外のことです。
その上で、次に賠償を考えると、賠償とは、自己の側に非があって、故意も含めてその過失ある行為によって、相手に損害を与えたことに対して、責任を認めて、真剣かつ真摯な謝罪に加えて、その損害への償いとして、賠償をするということになるのです。
つまりは賠償とは、心からの謝罪を伴った、償いのひとつの具体化であるはずです。
もちろん、過失ある行為と損害との間に、相当の因果関係が必要であり、また損害に対しての賠償の範囲や程度も相当である必要があります。
相当の因果関係とは、原因と結果に相当の関係があることが必要ということであり、無限に連鎖していく因果関係までを含めないということです。
いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」というような、あることが原因となって、その影響がめぐりめぐって意外なところにまで及ぶような結果にまでは、含めないということです。
だから、仏教上の思想哲学である因果応報と混同したような、永遠に永続する千年不変の因果関係というものは、存在しえないものであり、また因果応報を借意とするならば、それは業と輪廻により、責任はやがて転嫁されて跳ね返っていくものと言わざるを得ません。
また賠償の範囲や程度も、その損害を補うに足りるものであって、過少であってはならないものの、過大である必要はもちろんなく、また賠償金の多寡だけを持って、償いの意思や気持ちの強弱や大小が測られるものではありません。
ただし、哀しいことに、人は謝罪や賠償についても、自分の価値観から判断します。
価値観とは、何を持って、価値あるものとするかです。
しかし、その価値観とは、その人が生まれた時代や、生まれた場所、育った環境や受けた教育、そして生きてきた境遇によっても、人それぞれの持つ個性によっても、大きく異なるものであり、また周囲の人たちの価値観や意向にも大きく影響を受けるものです。
自分が傷ついたことを許せないのに、人を傷つけることは意に止めない人がいます。
人の過ちは徹底的に責めるのに、自己の過ちは認めようとしない人もいます。
それが哀しいかな、人の世の人の所業であり、なりわいです。
もちろん、罪や過ちについても、軽重があって、ときに、人のいのちに関わるようなもの、人の一生の人生に関わるようなものなど、とりかえしのつかない、かけがえのないものに損害を与えるような重大な罪や過ちがあります。
頭を床につけて土下座しても許されない罪というものがあるのは事実です。
どれぐらい償えば償えきれるのか、それはもちろん計算できるものではなく、またどうしても償いきれるはずもない罪というのもあります。
そして踏んだ足は痛まないけど、踏まれた足はその痛みを忘れられない。
それも事実でしょう。
そして、受けた側からはどんな軽微な罪であっても、主観的には重罪というのも事実です。
しかし、だからといって、なんどもなんども土下座の謝罪を強要し、あるいは、多額の賠償金の償いをもっても許さないことが、果たして、ほんとうに、人としての振る舞いとして、人としての生き方としてどうなのかと、考えてみるのも必要ではないでしょうか。
「謝罪と賠償」という言葉は、非常に重い言葉です。
相手の罪を問い、責任を負わせる、非常に重い重い言葉なのです。
軽々しく、安易にかつ頻繁に、使うべき言葉ではないのです。
しかし一方では、関わってはならない、無視して済ませる、言葉ではないのです。
そのままに、放置して、鎮まるべき言葉でもないのです。
人は一生という、わずかな限られた時間の中で、そして生きていく狭い限られた空間の中で、偶然に出逢えた奇跡の中で、人と接して、そして、人を理解して、人と交流し、やがてそれぞれの生死のはざまに、別れていかなければならない宿命を持っています。
ならば、執拗に反省を求めて、「謝罪と賠償」を要求し続けて、憤怒の恨みを持って一生を終わらせるより、償いを受け入れて、許すということを考えなければなりません。
人の言に左右されるのではなく、自分の意思として持たなければなりません。
許すということは辛いことでしょう。
これまでの自己を否定しなければならないこともあります。
だからといってこれからも続く人生です。
泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生です。
償いとは、互いの一生を大切にするためのものなのですから。
この唄は、さだまさしさんの7枚目のアルバムである「夢の轍」という1982年(昭和57年)にリリースされたアルバムに収録されています。
この「夢の轍」というアルバムについては、これまでの青春音楽館の掲載曲の解説においても書いていますが、さださんのアルバムの中でも、かなり地味なアルバムであり、いや地味というよりは、影が薄くて、グレープ時代からのさだファンであるマスター(館長)の老眼のかかったひいき目で見ても、あまり売れなかったアルバムでした。(笑)
実際、調べてみると、さださんがグレープを解散してから、「帰去来」というアルバムでソロデビューをして、次の「風見鶏」、そして「私花集」、「夢供養」と続くアルバムたちが、瞬間的にも、曲がりなりにも、オリコン1位を獲得していたのに、このアルバムに至って、初めてオリコン1位獲得を逃して、3位入賞がやっとでした。
まあ、アルバムタイトルの「夢の轍」の「轍」という漢字が難しくて、さだファン以外の多くの人に読めなかったから、という理由もあったのかもしれません。(笑)
「轍」は(わだち)と読み、輪(わ)立ち(だち)の意味、道などに残る車輪の跡というほどの意味であり、轍に足を取られるなどと使われ、音読みの(てつ)では、前車の轍(てつ)を踏む、同じ轍を踏むなどと使い、前例で失敗したことを繰り返すことなどを指して、いずれにしろ、あまり縁起の良い、験(げん)の良い、漢字、いや、感じではないですよね。(笑)
もっとも、「夢の轍」のひとつ前にリリースされたアルバムタイトルも、すでに「うつろひ」ですから、さださん自身もピークが移ろい過ぎたことを意識していたのかもしれません。
もっともピークを過ぎたというよりは、「うつろひ」から「夢の轍」のリリースされた頃は、さださんが監督・主演で制作した映画「長江」の興行成績の不振により、35億円くらいの膨大な借金を抱えこんだ頃で、ちょっとやそっとのヒット収入では適わなかったのでしょう。
そういう意味では、映画制作という長年の壮大な夢を果たしながらも、その夢の轍に足を取られて、あとは倒れるのを待つような状況だったのかもしれません。
しかし、「人間万事塞翁が馬」ということは確かにあって、このことがその後のさださんの記録的なコンサート活動や精力的な音楽活動、そして多彩かつ神出鬼没の活動の原点となり、原動力となったことは、言うまでもありません。
マスター(館長)としては、このアルバムの収録曲である、「前夜 桃花鳥(ニッポンニア・ニッポン)」や「退職の日」を、すでに青春音楽館に登場させていますし、決して、個人的には評価が低いアルバムではなく、さださんの隠れた名曲のある名アルバムと考えています。
ただ、事実として、あまり売れなかっただけのことです。(笑)
そして、今回の曲の「償い」も、その中のひとつです。
さださんが歌詞のモチーフとした実話は、交通事故の被害者の奥さん側から聞いた話しだそうで、如何に、償うということが難しいものであるのかを、加害者側からの視点に置き換えて表現したのは、さださんの卓越した想像力や創作力のなせるところでしょう。
だからこそ、1982年(昭和57年)のリリースされた当時、熱心なさだファンたちの間では、ひっそりとこの「償い」をなんども聴きながら、なんどももらい泣きの涙を流させてもらって、名曲として受け入れていったのだと思います。
しかし、やはり、一般的には「暗いさだの唄」という負のイメージのためなのか、シングルカットもされないまま、世間で脚光を浴びることもありませんでした。
その数年後には、男女の別れを歌ったテレサ・テンさんの「つぐない」という唄がヒットして、「つぐない」といえば、この曲の方が有名となり、さださんの「償い」はその存在すらも、忘れ去られるような状況でした。
ところが、それから20年のときを超えて、2002年(平成14年)2月に、この「償い」の歌詞が脚光を浴びるような、以下、次のような報道がありました。
さだまさしの曲引用で被告を諭す 三軒茶屋事件の裁判
東京・世田谷区の東急田園都市線三軒茶屋駅で昨年4月、銀行員の男性が殴られ死亡した事件で、傷害致死罪に問われた当時18歳の少年2人の判決公判が19日、東京地裁で行われ、山室恵裁判長は求刑通り、それぞれ懲役3年以上5年以下の不定期刑とする実刑判決を言い渡した。裁判長は2人に対し、歌手、さだまさし(49)の曲「償い」を引用し、異例の説教。伝え聞いたさだも「法律で心を裁くには限界があるから…」と話した。
判決後、閉廷する直前だった。反省の色が見られない少年2人に対し、裁判長は「唐突だが、さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか」と切り出した。うつむいたままの2人に、「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と少年の心に訴えた。(2002年2月20日付けサンケイスポーツ)
裁判長の説教というのは、一般的には、説諭と言われてますが、刑事訴訟規則第221条には、「裁判長は、判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる。」という規定に基づき行われる判決宣告後の訓戒行為です。
厳格かつ堅実で、しかし、世間ずれしていなく、浮世離れしていて、少し常識外れもしていると思われる裁判長裁判官が、裁判所の法廷において、「さだまさし」という、世俗の歌手の唄の歌詞を取り上げたということが大きく話題になりました。
そして、このあと、多くのテレビの報道番組やワイドショー、週刊誌などでも取り上げられて、また警察の運転免許更新の際などに視聴する交通安全講習ビデオにも採用されたりしたので、記憶されている方も多いと思います。
また、インターネットで検索すればこの話題は、いろいろと出てきますので、ここでは話題となった裁判の判決文について、下記に掲載することにして、マスター(館長)もこれ以上、多くは語りません、と言いながら、すでに多くを語りつくしたかもしれませんが。(笑)
※裁判所のホームページから、今回の記事にある判決文(地方裁判所刑事公判請求事件)を引用しておきます。なお説諭は文書化されていません。
平成13合(わ)300 傷害致死被告
主 文
被告人両名をそれぞれ懲役3年以上5年以下に処する。
被告人両名に対し,未決勾留日数中各180日を,それぞれその刑に算入する。
理 由
(犯行に至る経緯)
被告人A及び被告人Bは,平成13年4月28日,友人のC,Dらとともに渋谷で遊ぶな
どした後,同日午後11時53分ころ,帰宅するため,E株式会社F線G駅からH駅行きの
電車に乗車した。
被告人らが混雑した車内で立っていたところ,ほどなくして,被告人Bとその近くに座っ
ていた被害者との間で,被告人Bの足が被害者に当たったかどうかを巡って口論とな
り,当時かなり酒に酔っていた被害者が被告人らに対し,「次の駅で降りろ。」などと言っ
た。
電車が三軒茶屋駅に到着すると,被害者は,自ら電車を降り,被告人らにも降りるよう
に要求した。そこで,被告人らはホームに降りて被害者と対峙したが,この電車が被告
人らの自宅付近まで帰ることのできるI駅行き最終電車であると思っていたことから,被
害者を三軒茶屋駅に置き去りにしてしまおうと考え,再びこの電車に乗り込んだ。しか
し,被害者が閉まりかけたドアに手を差し込むなどしてドアをこじ開け,電車に乗ろうとし
てきたので,被告人A及び被告人Bは,差し込まれた被害者の手を殴りつけたり,乗り込
もうとする被害者の胸腹部を足蹴りにしたりした。
そのような攻防を繰り返しているうちに,ドアが開き,被害者が被告人Aを引きずり出そ
うとして,被告人Aの着ていたトレーナーが破れた。被告人A及び被告人Bは,酔った被
害者にしつこく絡まれた上,被告人Aの服を破られたことで憤激した。
(罪となるべき事実)
被告人両名は,共謀の上,平成13年4月28日午後11時58分ころ,東京都世田谷区
ab丁目c番所在のE株式会社F線三軒茶屋駅1番線ホーム上において,被害者(当時4
3歳)に対し,こもごもその顔面を手拳で数回殴打してホーム上に転倒させるなどの暴行
を加え,よって,同人に鼻骨骨折を伴う鼻根部から鼻背部上半にかけての打撲傷,口部
左半擦過打撲傷,左側頭部前半打撲傷等の傷害を負わせ,同年5月4日午前7時47
分,東京都目黒区de丁目f番g号所在のJ医療センターにおいて,上記傷害に基づく左
椎骨動脈破裂による外傷性くも膜下出血により同人を死亡するに至らせたものである。
(過剰防衛及び誤想過剰防衛に関する補足説明)
1 被告人Aの弁護人の主張
被告人A(以下「A」という。)の弁護人は,@Aが被害者を殴打した行為は,被害者が
Aの右肩口を掴んで電車内からホームに引きずり出し,ホームでAの肩口を掴んだまま
右手を振り上げて殴りかかろうとしたという急迫不正の侵害に対し,防衛行為としてやむ
を得ずに行ったものであるが,防衛行為の相当性を欠いていたため,過剰防衛に該当
し,A仮に,Aが被害者を最初に殴打した後に急迫不正の侵害がなくなっていたとして
も,その後のAの被害者に対する暴行は,誤想過剰防衛に該当すると主張する。
2 検討
そこで検討すると,被害者がAに対し右手を振り上げた行為については,Aが捜査段
階及び公判廷において,その旨明確に供述しているところ,その供述は,検察官の反対
質問によっても揺らぐことなく一貫しており,Aと被害者との間の諍いの経緯等に照らし
ても,特段不自然な点がないばかりでなく,被告人B(以下「B」という。)が捜査段階及び
公判廷を通じて,被害者から攻撃を受けた旨の供述をしていることをも併せ考えると,信
用することができる。検察官は,本件犯行を目撃した複数の者が被害者の攻撃に関し
何ら供述していないことを指摘して,Aの供述は信用し得ない旨主張するが,各目撃者
の供述内容は,断片的であり,暴行態様等について曖昧な点が見られる上,中には「被
害者が殴られているとき,一度抵抗したように見えた。」などという供述も存在するので
あるから,検察官の指摘するところは,Aの供述の信用性を覆すに足りるものではない。
また,被害者がAを電車内からホームに引きずり出した行為については,関係証拠に
よって認められるとおり,その際,Aの着ていたトレーナーが破れたのであって,被害者
がかなり強い力でAを引きずり出したことが推認できるのであり,このことからすると,被
害者の行為は,Aに対し実害又は危険を与えるに足りる行為ということができる。
そして,関係証拠によれば,被害者が被告人らに対し,「次の駅で降りろ。」「かかって
こいよ。」などと言って挑発的な態度を執り,Aの着ていたトレーナーが破れるほど強い
力でAを電車内からホームに引きずり出した上,左手でAの肩口を掴んだままAに対し
右手を振り上げたことが認められるが,他方で,@被害者は,本件当時かなり酒に酔っ
ていて,体がふらついており,被告人両名ともこれを認識していたこと,A被害者は1人
であったのに対し,被告人側は,被告人両名を含めて4名いたこと,B被害者は,三軒
茶屋駅のホームで被告人両名から暴行を加えられた際,何の抵抗もしなかったこと,C
Aは,本件犯行の動機について,被害者がしつこく絡んできたことに腹が立ったから暴
行を加えたのであり,被害者を殴る必要性はなかった旨供述していること,DBも本件
犯行の動機について,Aとほぼ同じ内容の供述をしていることなどが認められ,これらの
諸事情からすれば,被害者がAを電車内からホームに引きずり出した行為やAの肩口を
左手で掴んだまま右手を振り上げた行為がAに対する不正の侵害に当たるとしても,A
は,それまでの被害者との間の喧嘩闘争の一環として,被害者に対し専ら積極的に加
害行為を加える意思で暴行に及んだものというべきであって,侵害の急迫性の要件を充
たさず,かつ,防衛の意思を欠くものであるから,Aの被害者に対する暴行行為につい
て過剰防衛又は誤想過剰防衛が成立しないことは明らかである。
(自首に関する補足説明)
被告人両名の弁護人は,それぞれ,被告人両名について自首が成立すると主張する
ので検討すると,関係証拠によれば,@Bは,平成13年5月4日,ニュースで被害者が
死亡したことを知り,家族に事実を打ち明け,同日午後9時30分ころ,自宅に近い神奈
川県警察本部K警察署に出頭し,その後,警視庁L警察署に移動し,翌5日午前2時30
分ころ,司法警察員によって自首調書が作成されたこと,AAは,同月4日,Cから被害
者が死亡したことを聞き,同日午後11時50分ころ,家族とともに,自宅に近い警視庁M
警察署に出頭し,その後,警視庁L警察署に移動し,翌5日午前3時45分ころ,司法警
察員によって自首調書が作成されたことなどが認められ,これら被告人両名が捜査機
関に出頭した経緯に鑑みると,本件において被告人両名につき自首が成立することは
明らかである。
(量刑の理由)
本件は,電車の中で始まった諍いを契機に,被告人両名が被害者に暴行を加えて,死
亡させたという事案である。
被告人両名は,混雑した電車の中で被害者と口論になり,その際,被害者が被告人ら
にしつこく絡んできたことなどに憤激して,本件犯行に及んだのであり,その短絡的な動
機に酌量すべき余地はない。
被告人両名は,被害者がかなり酒に酔い,ふらふらした状態であったことを認識しなが
ら,こもごも手拳で顔面を数回殴打するなどして被害者をホーム上に転倒させ,血だら
けになって倒れていた被害者を放置したまま現場から逃走し,結果として,外傷性くも膜
下出血により被害者を死亡させたのであり,犯行態様は,危険,悪質である上,卑劣で
あり,生じた結果も重大である。
被害者は,被告人らに対し,電車から降りるように要求するなどしてしつこく絡んでい
たとはいえ,生命を奪われるまでの落ち度はなかったのに,深夜,複数の男から暴行を
加えられた挙げ句,意識を取り戻すことのないまま,年老いた母親や婚約者を残して死
亡したのであって,その無念さ,口惜しさは察するに余りある。
にもかかわらず,被告人両名は,被害者の遺族らに対し慰藉の措置を十分に執ってお
らず,被害者の遺族,婚約者らが厳しい被害感情を抱いているのも当然である。
また,本件は,死を招いた車内暴力の事件として,マスコミにも大きく取り上げられ,人
々に衝撃を与えたのであり,その社会的影響も軽視することができない。
以上からすれば,被告人両名の刑事責任は重い。
他方,被告人両名は,本件犯行後警察署に出頭して自首し,捜査段階の当初から本
件犯行を認め,反省の態度を示していること,未成年であること,被告人両名の親が公
判廷において今後の監督を誓っていることなど,被告人両名にとって有利に斟酌すべき
事情も認められる。
しかし,前述した本件の重大性に鑑みると,被告人両名にとって有利に斟酌すべき諸
事情を最大限考慮しても,求刑どおり懲役3年以上5年以下の刑をもって臨まざるを得
ないと判断した。
(求刑 被告人両名につき 懲役3年以上5年以下)
平成14年2月19日
東京地方裁判所刑事第5部
裁判長裁判官 山室 惠
裁判官 松本 圭史
裁判官 大野 洋
(初稿2014.12 未改訂) |