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この空どこまで高いのか
青い空 お前と見上げたかった
飛行機雲のかかる空
風来坊 サヨナラがよく似合う
によっほりと秋の空なる富士の山
上島鬼貫
秋の空は、より高く、そして、より青く見えます。
秋には大陸で育った低温で乾燥した空気を持つ移動性の高気圧がやってくることが多くなり、いわゆる、さわやかな秋晴れの好天気が続きます。
空気中の水蒸気や、砂やほこりなどの不純物が少ないため、透明性が高まって、抜けるように澄みきった青空になるために、空が高く見えるのです。
また、空が青く見えるのは、太陽の七色の虹色光のうち、波長が短い青系統の光線が空気の分子に当たって散乱して、目に入りやすいためですが、空気中に不純物が多いと白っぽく見え、秋は空気が澄んでいるために、より青く見えるのです。
この秋は何で年よる雲に鳥
松尾芭蕉
また、秋に多く発生する、すじ雲やうろこ雲、いわし雲、あるいはジェット機が通った道筋にできる、白く細長い飛行機雲など、上空の高い所にできる雲がよく見えることも、空を高く見せて、また、その雲の白さとの対比で、空を、より青く見えさせるようです。
以上、イケメンカリスマ気象予想士のマスター(館長)の秋のお天気解説でした。
(注:気象予報士ではありません、念のため(笑))
だから、お天気怪説かもしれませんが。(笑)
歩き疲れて立ち止まり
振り向き振り向き来たけれど
雲がちぎれ消えるだけ
空は高く高く
ところで、天高く…といえば、「天高く馬肥ゆる秋」、あるいは、「秋高く馬肥ゆる候」という手紙の時候のあいさつを思い浮かべます。
肥えるのは馬だけなの?…という声もボソっと聞こえるようですが、それは話題にしませんから。(笑)
さて、「馬肥ゆる」、とは、「馬が肥える」の文語的表現ですが、すなわち暑い夏場を乗り切った馬たちが、涼しい秋を迎えて食欲が増して、肥えてたくましくなるというほどの意味と考えられます。
しかし、この言葉はほんとうは、「天高く馬越ゆる秋」で、天が高く澄む頃になると、馬が国境を越えてやって来る秋の意味であるとも言われています。
出典を検証しますと、史記に次ぐ中国正史の「漢書」の趙充国伝 ( ちょうじゅうこくでん )には、「秋に到れば馬肥ゆ、変必ず起こらん」が由来とあります。
趙充国は、前漢の武将で、その趙充国伝には、秋になって馬が肥えるようになると、元気な馬にまたがって、北方の匈奴(きょうど)と呼ばれた騎馬民族が、中国国境(万里の長城)を越えて侵入してきて事変が起こるだろうと予見して、帝に警戒、注意を促した故事が記載されています。
これを踏まえると、「天高く馬越ゆる秋」でなく、やはり、「天高く馬肥ゆる秋」でいいのかと思いますが、味覚の秋に、肥えるのを警戒、注意をしなければならないのは、なにも馬だけではありません…、って、これは話題にしませんってば。(笑)
もっとも、話題にしなくとも、秋の終わりには、体型と体重計を見れば一目瞭然となり、これを「百聞は一見にしかず」といいます。(笑)
ちなみに、「百聞は一見にしかず」という言葉も、趙充国の言葉として伝えられています。
この風どこまで強いのか
北の風 お前と防ぎたかった
ピューピュー体を刺す風
風来坊 うつむきがよく似合う
体を刺す風、北の風、北風、ピューピュー、いかにも語感からして、寒そうな感じがします。(笑)
ところで、北風ピューピューといえば、やはり、この童謡が思い浮かんできませんか。
かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」 「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている
きたかぜぴいぷう、という表現が、いかにも童謡の歌詞らしくて、可愛いいですね。
でも、本格的な生垣のかきね(垣根)のある家などは見かけなくなりましたし、たきび(焚き火)なども、キャンプにでも行かないと体験できません。
さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」 「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい
しもやけ おててが もうかゆい も、ほのぼのとした光景を描写した歌詞なんですが、さて、しもやけ、なんて言葉もすっかり聞かれませんね。
今は子どもが、おてて かゆい なんて言い出したら、アトピーかしら…ってことになりますよね。(笑)
そういえば、しもやけを防ぐために、子狐が町の帽子屋さんまで、手袋を買いに行くお話しがありました。
結核により29歳で夭折した童話作家の新美南吉氏の「手袋を買いに」という童話でしたね。
小学校のときに習いませんでしたか。
同じく新美氏の「ごんぎつね」も好きな童話でした。
「手袋を買いに」で母狐が、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」と最後につぶやくところや、「ごん狐」の「ごん、お前(まい)だったのか。」と、ごんを撃った兵十の問いかけに、ぐったりと目をつぶったままに、ごんがうなずくところは、子ども心にも、いろいろと考えたものです。
こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」 「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく
「たきび」 作詞 巽聖歌/作曲 渡辺茂
この童謡「たきび」の作詞者、巽聖歌氏は、新美南吉氏の北原白秋門下の兄弟子にあたる人で、4歳で母を亡くし、不遇な幼年時代を過ごして、志半ばにして、世に認められることなく逝った新美氏の才を惜しみ、彼の作品集を出版することに力を尽くしました。
巽氏が蔭にいたからこそ、新美氏の作品が散逸することなく、いまなお新美南吉童話として読むことができるのだといっても過言ではありません。
人の世のせつなさ、はかなさと、そして、暖かさを実感するエピソードです。
歩き疲れて立ち止まり
振り向き振り向き来たけれど
背中丸め直すだけ
風は強く 強く
強い風のなか、その中を歩くときに、人はあたかもその向かい風が、逆風が、自分にだけ、自分に向かってだけに、吹いているのだと思いがちです。
でも、丸めた背中を伸ばして、いちど、あたりを見回してごらんなさい。
ほら、あなたとおなじように、強い風の中を、風に向かって歩いている人がいるのに気がつくはずです。
この道どこまで遠いのか
恋の道 お前と暮らしたかった
振られ捨てられ気づく道
風来坊 強がりがよく似合う
歩き疲れて立ち止まり
振り向き振り向き来たけれ ど
瞳熱くうるむだけ
道は遠く 遠く
戦国時代を生き抜き、勝ち抜いて、天下人となった徳川家康でさえ、「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」という言葉を残しているのです。
立ち止まってもいいじゃないですか。
見栄を捨て、虚勢を張らずに。
急ぐ必要も、あせる必要もありません。
でも、立ち止まったら、いちど、あたりを見回してごらんなさい。
ほら、あなたと同じように、遠い道のりを歩いている人がいるのに気がつくはずです。
しかも、あなたよりも、ずっと重い荷物を背負って歩いている人がいるのに気がつくはずです。
この坂どこまで続くのか
上り坂 お前と歩きたかった
誰でも一度は昇る坂
風来坊 独りがよく似合う
歩き疲れて立ち止まり
振り向き振り向き来たけれど
影が長く伸びるだけ
坂は続く 続く
坂は続く 続く
そうです、誰でも一度は昇る坂なのです。
だれでも…。
かなしみは だれでも もって いるのだ
わたしばかりでは ないのだ
わたしは わたしの かなしみを
こらえて いかなきゃ ならない
「でんでんむしのかなしみ」 新美南吉
そうです、だれでも、悲しみを持っているのです。
そして、誰もがそれを背負って生きているのです。
あなただけではない…。
ひとりだけではないのです…。
笑ってよ君のために
笑ってよ僕のために
きっと誰もが
同じ河のほとりを歩いている
「道化師のソネット」 さだまさし
そう…、みなが歩いているのです。
そうして、みなが生きているのです。
あなただけではない…。
ひとりだけではないのです…。
それに気がついたら…。
ほら、強い風のなか、はるか遠い道を、きつい坂道を、立ち止まりながらも、また、歩き出しましょう…。
あなたなら、できるはずです。
あなたなら、きっとできます。
ふきのとうは、1974年に、名曲「白い冬」でデビユーした細坪基佳さんと、山木康世さんによる北海道出身のフォーク・デュオで、1992年に解散しました。
風来坊という言葉は、広辞苑によれば、「どこからともなく、さまよい来た人。浮浪人。落ちつかない人。気まぐれな人。」とあって、元来は、あまりいい意味では使われていないようです。
現在、よく使われている、失業したりして、働かずにいる人のことを「プータロー」、そして、そんな状態のことを「プーしている」などというのも、この風来坊が語源とも言われています。
この曲では、振られて、失恋中で、なにもする気が起こらない根無し草のような状態のことを、風来坊と言ったものと思われます。
さて今回は、リコーダーとパーカッション、スチールギターのパートを強調して、横笛と鐘と太鼓の音のような雰囲気にして、遠くの方から風に運ばれてくる祭囃子の音ように仕上げてみました。
天高く青い空に響く、哀愁を帯びたメロディとリズムが郷愁を誘い、ふきのとうらしい名曲ですね。
(初稿2004.10 未改訂) |