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「ふるさと」―松山千春

     人はいさ 心も知らず ふるさとは
     花ぞ昔の 香ににほひける
                   「古今集」  紀貫之

ぼくは、生まれ育ったのが大阪市内で、その後も、生誕地半径5キロメートルの大阪市内圏内だけで、ずっと棲息してきて、いわば、都会が「ふるさと」の純シティーボーイ…、と、誰もそう見てはくれませんが。(笑)

しかし、石川県出身の室生犀星さんに言わせれば、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 ですから、遠くになくて、しかも現住地近くであれば、「ふるさと」がないということにもなるのかもしれません。

ところで、ふるさとを遠く離れている人が、お盆や正月に、久し振りにふるさとに帰省してみると、ふるさとの街並みが変わっていた…、いつも通っていた店が無くなっていた…というような話しをよく聞きます。

しかし、遠く離れていなくても、変わるものは変わっていく、無くなっていくものは無くなっていきます。

近くても、遠くても、時の流れは止められません。

ぼくが変わってしまった、無くなってしまったと実感するもののひとつに、喫茶店があります。

     勉強しなけりゃ いけないといわれ
     茶店に入っては いけないといわれ
     タバコを吸っては いけないといわれ
     夜は早く 帰れといわれた
     授業さぼって 茶店に入り
     タバコを吸ったら
     こんな気持ちのいいことはなかった
                       「17才の詩」 N.S.P

学校帰りに初めて友だちと立ち寄った喫茶店。
ドアを開けた瞬間に、コーヒーの香りと、煙草の匂いが包みこんだ、少し薄暗い雰囲気の喫茶店。

高校生になったばかりのぼくは、その大人びた、そして少し不良っぽいその雰囲気に、少年時代から青春時代へ入った気がしました。

ちょっとカッコつけて、「サテン」、ちょっと照れて「ちゃみせ」なんて呼んでましたっけ。

もっとも、ちよっと軟派系の片鱗を見せながらも、基本的には硬派でしたから、喫茶店で「マチ」していたのは、ほとんどオトコの「ダチ」ばかりでしたが。(笑)

ほとんど…、いうのが、正直者のマスターらしい言い方ですけど。(笑)

そんな、高校時代から大学時代にかけてよく通っていた、学校近くの喫茶店や、繁華街にある喫茶店、そして近所の街角の喫茶店が、軒並みに、無くなってしまいました。

   喫茶店でほおずえついて
   誰か待つようなふりをして
   タバコの煙目にしみただけ
   こぼれる涙ぬぐおうともせず
   田舎者とは悟られぬ様
   3杯目のコーヒー頼んだ

片すみでボブ・ディランを聴きながら、わけもなくお茶を飲み話した音楽喫茶も、煙草とコルトレーンで一杯だったジャズ喫茶も無くなりました。

引っ込み思案で照れ屋でまぬけの複雑な性格のお人好しのマスターも、フォークのギターをひいて時の流れを見つめてたマスターもいなくなりました。

だから、彼らの代わりに、青春音楽館のマスターは、もう少しだけ、頑張らなきゃいけないのかな。

マスターの骨董品になるかな。(笑)

喫茶店が無くなっていく、ぼくの住んでいる地域だけの現象かと調べてみると、どうもそうではなくて、喫茶店の数が、全国的に激減しているようです。

   いくら何でも3杯飲めば
   それもしっかり飲み干せば
   店の雰囲気冷たい視線
   気まずい思いかみしめて
   いやだいやだと呟きながら
   人の波にのまれる

総務庁の「事業所統計調査」によれば、喫茶店の数は、昭和56年(1981年)にピークを迎えて、15万4千件を数えますが、その後、減少して、平成13年(2001年)調査では、8万9千件にまで減少しています。

つまり、日本全国で、この20年間に、4割以上の喫茶店が廃業したことになります。

その背景には、家庭やオフィスでのレギュラーコーヒーの普及、ファーストフード店やファミリーレストランとの競合や、インスタントコーヒーや缶コーヒーなどの質の向上、外資系の低価格コーヒーショップの台頭などがあげられています。

つまり、経営者の高齢化とともに、時代の流れで、採算の取れる喫茶店の経営が立ち行かなくなって、後継者に引き継げなくなったようです。

田舎者がみんな都会人になってしまって、喫茶店で、ひとりでコーヒー3杯を飲む人が少なくなったのも影響しているのかもしれません。(笑)

都会暮らしの中にあって、コーヒーの香りが立ち、BGMが流れるような場所は、ぼくにとって、ある意味でひとつの青春のふるさとだったように思います。

   緑の電車飛び乗るように
   街は灯りを点し出す
   電車の窓に息を吹きかけ
   指でなぞった 故郷と
   押されて気付き慌てて消した
   小さく書いた 故郷

緑の電車といえば、東京では、都心部を環状運転している山手線をいうのでしょうか。

そういえば、山手線のこと、東京の人に、「やまてせん」ってゆうて、あれは「やまのてせん」と読むんだょって、ゆわれて、田舎もん扱いされちゃってね。(笑)

せやけどね、ぼくの記憶では、「やまてせん」っていうてた東京の人もいるじゃん、って気がします。(笑)
それって、江戸っ子と、東京人の違いかなぁ。(笑)

そういえば、東京の人を、オレンジ色の大阪環状線に乗せたときに、へえ、環状線はそのまんま環状線って言うんだねッて、妙に感心されたなぁ。
でも、いま思うたら、感心してゆうたんやろか。(笑)

ところで大阪で、緑の電車といえば、南海電車です。
いっかい乗ってもなんかい電車です。(笑)

なにゆうてんのん、京阪電車も緑の電車やでぇ〜って、おけいはんにゆわれそうやな、って、おけいはんって誰やねんって、ゆわれそうやね。(笑)

ともかく、子どもの頃から見慣れている電車の車体の色を見たときには、やはり、ふるさとを感じるものですね。

   電車を降りていつもの道を
   ひとりトボトボ歩き出す
   幸せそうな灯りがもれる
   一家暖らん笑い声
   寂しくは無い空を見上げた
   星はにじんで輝く

夜空の星の数は、もちろん同じ地球から見ているのですから、同じ数のはずなのに、地域によっては、見える数は大いに違いますね。

とくに、ぼくの少年時代から青春時代の大阪の空は、空気環境が極度に悪化していた、いわゆる大気汚染公害時代の空でしたから、夜空に見える星なんて、ほんとに数えるほどでした。

     満点の星をいただく
     はてしない光の海を
     ゆたかに流れゆく風に心を開けば
     きらめく星座の物語も聞こえてくる
     夜の静寂のなんと饒舌なことでしょうか
              「ジェット・ストリーム」  城達也

深夜0時になると、ラジオをFM放送にあわせて、「ミスター・ロンリー(Mr. Lonely)」のBGMに、城達也さんの甘いナレーションで始まる、ジェット・ストリームという番組を思い出す人もいるでしょうか。

ぼくが、おもに聴いていた深夜のラジオ番組は、AM放送のパソナリティーと呼ばれたDJ(ディスク・ジョッキー)のトーク番組か、ハガキによるリクエスト曲中心の音楽番組が多かったのですが、試験前などの集中しなければならない勉強のときなどは、この番組を聴いていました。

満点の星、きらめく星座…。
確かに、見える星の数が多いと、その煌めきや瞬きが、星たちのおしゃべりのようにも思えて、夜の静寂が饒舌だと思うのでしょうね。

満天の星なんて、プラネタリウムでしか見たことがなかったぼくも、林間学校やキャンプで、山奥に行って、夜空を見上げたときに、はじめてそう思いました。

ともかく、見上げる夜空、それがポプラ並木のシルエット越しの空であれ、高層ビルの谷間から赤い航空障害灯越しの空であれ、やはりかけがえのないふるさとの夜空です。

   急いで探す公衆電話
   百円玉の黄色いやつ
   声が聞こえる 父さん母さん
   強く受話器握り締め
   帰りたいさ今すぐにでも
   それが言えずに 「それじゃまた」

たまに携帯電話を持ち忘れたときとか、充電が切れたときとかに、電話しようとして、公衆電話を探すのにかなり苦労するようになりました。

携帯電話が普及したことが最大の要因でしょうが、カードか小銭さえ用意しておけば、携帯電話のように、通信が途切れたり、充電が切れたりすることがない分、公衆電話は、それなりに便利なんですけどね。

さて、公衆電話の色といえば、あなたは何色を思い出すでしょうか。

     雨あがりの街 青い風が過ぎる
     花屋の店先の赤い電話に立ちどまる
               「結婚するって本当ですか」 ダ・カーポ

     あなたと別れた 雨の夜
     公衆電話の 箱の中
     ひざをかかえて 泣きました
                    「赤ちょうちん」 かぐや姫

     ダイヤル回して手を止めた
     I’m just a woman Fall in love
                    「恋に落ちて」  小林明子

公衆電話は、1900年(明治33年)東京の上野、新橋の両駅構内に設置されたのが最初と言われてますが、本格的に普及するのは、やはり戦後の昭和20年代も後半からです。

まず、1951年 (昭和26年) には、一般加入電話と同じく黒色の電話が、1953年 (昭和28年) には、目立つようにと、赤色の公衆電話になり、そして公衆電話ボックスには、青色の電話が設置されました。

1959年(昭和34年)には、喫茶店や飲食店などに、ピンクの電話が設置されます。

なお、ピンクの電話といっても、女流漫才師の声は聞こえませんし、そこのおとうさんが鼻の下を伸ばしながら、かけるものではありません、念のため。(笑)

その後、1972年(昭和47年)には、長時間または長距離通話に便利なように、 100円玉を使うことができる黄色が登場し、翌年には、緑色が登場します。

そして、1991年(平成3年) には、シルバーというか、灰色の電話が登場しますが、1995年(平成7年)には、赤色・青色・黄色の電話は廃止され、いまは緑色と灰色の公衆電話が残っています。

その間、ダイヤル式からプッシュ式に、そしてテレホンカードも、ICカード化が進みますが、先にお話したように、携帯電話の普及により、今後、公衆電話は、ますます伝説の電話になっていくんでしょうね。

しかし、携帯電話であれ、固定電話であれ、公衆電話であれ、そして、ほんの短い通話時間であったとしても、電話の向こうに、ふるさとがあることを想うだけでも、やはり人は心安らぐものなんでしょうね。

   夢なら今もこの胸の中
   深く閉じ込めたまま
   深く閉じ込めたまま

都会に、夢はありません。
でも、ふるさとにも、もはや夢はありません。

夢はあなたの胸の中にあるのです。
あなたが、あなた自身の心の中が、いつでも夢を育んでいる、ふるさとの大地なのです。

夢…、大切に、守り、育てましょう…。
あなたの心の中のふるさとの大地で…。
そうすれば、いつか…。

     夢は今も めぐりて
     忘れがたき ふるさと
                   「ふるさと」 高野辰之



松山千春さん、1955年(昭和30年)12月16日生
まれ、北海道足寄郡足寄町出身、血液型O型。

この曲は、松山千春さんらしい、足寄の頑固で正直な田舎もんらしい、バラード風のいい曲です。(笑)
松山千春ファンをして、これで路線が変わるのかなと不安がらせた松山千春さんらしからぬ、ラブソング「長い夜」の大ヒットのあとのリリースでしたから、よけいに、そう感じたのかもしれません。
「長い夜」とともに、ベストアルバム「起承転結 II」に収録されています。

(初稿2004.8 未改訂)


ふるさと

作詞/作曲 松山千春

喫茶店でほおずえついて
誰か待つようなふりをして
タバコの煙目にしみただけ
こぼれる涙ぬぐおうともせず
田舎者とは悟られぬ様
3杯目のコーヒー頼んだ

いくら何でも3杯飲めば
それもしっかり飲み干せば
店の雰囲気冷たい視線
気まずい思いかみしめて
いやだいやだと呟きながら
人の波にのまれる

夢なら今もこの胸の中
深く閉じ込めたまま
深く閉じ込めたまま

緑の電車飛び乗るように
街は灯りを点し出す
電車の窓に息を吹きかけ
指でなぞった 故郷と
押されて気付き慌てて消した
小さく書いた 故郷

電車を降りていつもの道を
ひとりトボトボ歩き出す
幸せそうな灯りがもれる
一家暖らん笑い声
寂しくは無い空を見上げた
星はにじんで輝く

夢なら今もこの胸の中
深く閉じ込めたまま
深く閉じ込めたまま

急いで探す公衆電話
百円玉の黄色いやつ
声が聞こえる 父さん母さん
強く受話器握り締め
帰りたいさ今すぐにでも
それが言えずに 「それじゃまた」

夢なら今もこの胸の中
深く閉じ込めたまま
深く閉じ込めたまま

1981年(昭和56年)
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