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花火の季節はもう過ぎて
誰も見向きもしないのね
あなたが愛した証拠には
ひとにぎりの花火だけ
「六日の菖蒲(あやめ)十日の菊」という言葉があるのをご存知でしょうか。
「六菖十菊(ろくしょうじっきく)」という四字熟語で表現されることもあるようです。
菖蒲(あやめ)というのは5月5日の端牛の節句に用いるために、6日になっては用がなくなり、9月9日の重陽(ちょうよう)の節句に用いる菊も、10日では遅いということから、時機を失して役に立たない、機会を失った、手遅れであるというほどの意味です。
時機を失して役に立たないもののたとえには、「夏炉冬扇(かろとうせん)」というのもあり、つまりは夏の火鉢や冬の扇子は無用ということであり、また、喧嘩騒ぎが収まってから棒や鉢巻を持って行っても何の役にも立たないという「喧嘩過ぎての棒千切り」、「喧嘩過ぎての向こう鉢巻」というのもあります。
また、時機を失して手遅れという意味では、「後の祭り(あとのまつり)」という言葉も有名ですね。
語源の由来には諸説があるようですが、一般的には、この祭りは、京都の祇園祭のことで、祇園祭のうち、祇園囃子で賑やかに華やかな宵山、山鉾巡行の「前の祭り」に対して、7月24日に行われるのが「後の祭り」で、大阪では天神祭りが始まる頃です。
この「後の祭り」の神事が本来の神事ですが、祇園囃子もなく、厳かにひっそりと行われることから、後の祭りだけ見るのでは、時機に遅れていて後悔することから転じたものが「後の祭り」とされています。
さて、そんな祭りに、花火が添えられると、より華やかに賑やかになりますが、花火というのは、やはり夏に似つかわしく、夏の季節のイメージですね。
歳時記を繰っても、花火、手花火、庭花火、線香花火、仕掛花火、打上花火、遠花火、いずれも夏の季語とされています。
手花火を命継ぐごと燃やすなり
石田波郷
もの焚て花火に遠きかゝり舟
與謝蕪村
手花火のその翌朝の庭の屑
高浜虚子
身籠りて子の手花火をまぶしがる
遠藤とみじ
音もなし松の梢の遠花火
正岡子規
手花火に妹がかひなの照らさるる
山口誓子
遠花火人妻の手がわが肩に
寺山修司
手花火にうかぶさみしき顔ばかり
岡本眸
花火の夜父逝きし日と縁に居る
福田蓼汀
別のこと考へてゐる遠花火
黛まどか
最近は、大きなイベントでは仕掛け花火や打ち上げ花火が季節を問わずに使われており、また、クリスマスや新年などの冬の客寄せとして、冬場のスキー場や観光地でも花火が見られますから、冬の花火も、ひとつの風物詩となってくるのでしょうね。
でも、大きな花火大会はともかくとして、手花火、庭花火、線香花火など、個人で楽しむ花火は、やはり夏に限るでしょうね。
寒風吹きすさぶ、波の花が舞い散る海岸で、根雪になっているキャンプ場の広場で、ちまちまと花火をしている姿なぞ、想像するだけで風邪ひきそうですから。(笑)
冬の花火はおもいで花火
私ひとり 火をつける
火薬のにおい あなたのにおい
重なり合って なつかしい
個人で楽しむ夏の花火で、どうしても最後まで残ってしまうのが、線香花火です。
残すなら買わなきゃ良いのにと思いつつ、やはり、なんとなく買ってしまうのが線香花火です。
夏の海水浴キャンプなどでは、打ち上げ花火やロケット花火で男女入り混じって、キャアキャアと騒いでいる友人たちから少し離れて、誰も見向きもしない線香花火をしている女の子がかならずいます。
そして、それに接近するチャンスを狙っている男の子もかならずいるのですが、もっとも、そういう娘は、やはりなにか訳ありです。(笑)
このごろの花火はすぐに落ちるとそうぼやいたり、誰かせんこう花火をください、ひとりぼっちの私にとか、煙にむせたと、ことりと咳して涙をぬぐっていたりして、結構、そんじょそこらの打ち上げ花火より、取り扱うのは難しいものなんです。(笑)
もっとも、虎穴に入らずんば虎児を得ず。
綺麗な花火を得ようと思えば、多少の火傷も覚悟しないと、人間的に成長しないものです。(笑)
もっとも、子どもの頃よく言われましたね。
火遊びすると、おねしょするよと。(笑)
冬の花火は おもいで花火
冬の花火は 失恋花火
冬の花火は こごえる花火
身を切るほど 美しい
いずれにしろ、花火が美しいのは、やがて花火が燃え尽きるものと知っているからでしょう。
消えない花火はない。
青春時代の恋愛などもそうかもしれません。
そして、燃え尽きる寸前に、その一瞬だけ、輝きを増すからこそ、さらに印象深く、思い出深くなるのでしょう。
死んでも 忘れはしませんと
背中を指で なぞったわ
あなたも百まで 生きようと
とても素直になれたわ
織田信長が本能寺で、明智光秀の謀反により自刃して果てたのは、49歳だったといわれています。
人間五十年 下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生をうけ 滅せぬ者のあるべきか
幸若舞 「敦盛」
これは、信長が好んだ一節で、戦国時代から人生50年だったのかと勘違いしそうですが、日本人の平均寿命は、明治時代半ばにようやく40歳を超え、50歳を超えたのは、戦後に入ってからです。
そして、現在の日本人の平均寿命は、男女平均すれば80歳くらいでしょうが、これが100歳になるのはいつのことでしょうね。
戦争や未知の病による多死要因を除けば、今後も、順調に伸びていくという説もあれば、そろそろ生物学的な限界に達しているという説もあります。
確かに、人間、50歳を超えると、加齢を実感することも多くなって、とくに、記憶力は減退していきます。
でも、ずっとむかしのこと、いわゆる、思い出の領域にある記憶は、結構、保持していたりします。
そして、その思い出のつらい部分を、いかに優しく包み込んで、思い出の幸せだった部分をいかに鮮やかに大切にしていくかによって、老いたときの顔の表情が変わってくるのかもしれません。
冬の花火はおもいで花火
燃やし続けているうちに
つらいつらいと言ってたころが
幸せだと いまわかる
禍福はあざなえる縄の如し、人間の運、不運というものは、確かにあると思いますが、なにが幸せで、不幸せなのか、人智では計り知れないのも確かです。
つらいという漢字は「辛」いと書きます。
「辛」の上に、「一」を足せば、「幸」になります。
だから、つらいいまが、結構、これでも幸せなんだと思って、その幸せのなかで、前向きに生きて、頑張っていくことも、人生の中では必要でしょう。
冬の花火は おもいで花火
冬の花火は 失恋花火
冬の花火は こごえる花火
身を切るほど 美しい
生き別れ、死に別れ、別れには、いろんな別れ方があるでしょう。
でも、おもいで花火、失恋花火、こごえる花火、その身を切るほど美しい花火を見ることができるのも、またその傷みを感じるのも、生きていりゃこそのことです。
いつかかならず、私たちは、この世を去るときがあって、別れた人たちに、あの世に先に旅立った人たちに、まためぐり会うでしょう。
そのときに、あれから、こんな花火も見たんだよって、あの人たちに、言ってやりましょうよ。
でも、案外、空の上から、ずっと見ていたよなんて、答えが返ってくるのかもしれませんね。(笑)
N.S.Pの曲は、男性を主人公として歌った曲が多いのですが、この曲は、めずらしく、女性を主人公とした設定のストーリー仕立てになっています。
女性側の心情を、叙情的に描いたという点においては、同じくN.S.Pの「八十八夜」がありますが、「八十八夜」の主人公の方は、失恋においては、去っていく方、いわば振った側、であり、ある意味では心の準備があった分、余裕があるのに対して、この曲の方は、去られた方、振られた側です。
しかし、だからこそ、直接的に、失恋のせつなさや、やるせない想いが伝わってきます。
同じくN.S.Pの「さようなら」の男性の主人公との心情においての共通性が見られるかもしれません。
そういう意味では、「さようなら」の男性と、この「冬の花火はおもいで花火」の女性が、いつしか赤い糸に導かれて、冬にめぐり合うようなストーリーの歌を作ってくれたらいいな…、なんて、ひそかに思っていましたが、それはかなわぬことになりました。
N.S.Pのリーダー、天野滋さんは、2005年(平成17年)7月1日、大腸がんで、享年52歳で、亡くなられました。
でも、死んでも忘れはしません。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
(初稿2007.1 未改訂) |