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「ひき潮」―さだまさし

つきあって、もう三年、でも、なんにも進展しそうにないし…そろそろ潮時かしらね…。

五年前に高値で買った株、ずっと低迷していて上がりそうにない…、ここが潮時かもしれないな…。

サイトを立ち上げて七年、深夜、眠い目こすって更新してきたけど…、ふぅ、もう潮時なのかな…。

潮時かしらね…、そう思ったことがありますか。
潮時かもしれない…、そう考えたことがありますか。

まあ、人それぞれに、さまざまに、潮時を意識することがあると思います。

潮時とは、物事を始めたり、終えたりするのに、ちょうど良いとき、適当な時機のことをいいます。

もっとも、それに確実性はありません。

だから、よほどの自信家か、虚言家か、無謀家か、宗教家か、政治家でも無い限り、潮時を断定的にはいいません。(笑)

ほとんどの場合、あくまで、もう潮時かな?、まだ潮時でないのか?、という、自問や反問、あるいはそれで煩悶するのです。(笑)

神や仏でないから、その潮時が分かりません。

なんとかして、そんな潮時が分かるような基準がないものかと、インターネットで調べてみると、探してみるもんですね、ありましたよ。

潮時表というものが…。

そうか、潮時って表でまとめられるのかな。

なになに、潮時表…、満潮と干潮…うん?
どこかで見たような…。

そういえば、数年前、マスター(館長)は、少し釣りにはまったことがあります。

釣りにはまった…というより、実は、ほんとうは、海を見たいなと、思うような時期だったわけです。
どんな時期だったって?
まあ、いまとなっては想像にお任せします。(笑)

しかし、大の男、それも中年のおっさんが、海を見たいなといって、身じろぎもせずに海を見つめていても、耳を澄まして、海鳴りを聞いていても、かもめとたわむれていても、海に向かってバカヤローって叫んでも、やはり絵になりません。(笑)

いや、むしろ挙動不審者として海上保安庁に通報されそうな気すらして、それじゃ、釣りでもしてる振りして、海を見ようか…という不順な動機でした。(笑)

それもひとりだと、なにをしでかすか自信がないから、中学生だった息子を誘って、潮時表を調べて夜中からごそごそと、夜明けの海から、ときには一日中、海をみつめていました。

釣りは、干潮時から満潮時にかけて潮位が次第に高くなる時が好機であり、それも大潮の時は比較的良く釣れるといいます。

満潮と干潮との潮位の差が大きいのが大潮で、小さいのが小潮、大潮から小潮の間に、中潮、長潮、若潮があると言われるのですが、マスター(館長)の場合には、あまり釣果とは関係なかったように思います。

むしろ、並んで釣りをしているのに、同じ道具、同じエサなのに、釣果が違って、あまり釣れていない方がそろそろ潮時かと思うのに、釣れている方は、まだまだこれからってことも多いような気がします。

潮の満ち引きは、地球と月と太陽の天体運動に関わっていることが知られていますが、潮の干満の時刻に合わせて、いのちが生まれたり、消えたり、考えれば、いのちと密接につながっているのですね。

そんなことを、釣り糸を垂れながら考えていました。

まあ、あまり釣れなかったから、そんなことでも考えなきゃしかたなかったともいいますが。(笑)

   都会の暮らしは鮮やかな色どり
   華やかな寂しさと夢に良く似た嘘と
   そんなもので出来ている可笑しい程に

マスター(館長)は、いちおう都会といわれるところに、生まれ育ったので、都会の暮らしが、賑やかで、華やかで、といわれても、あまり実感がないのです。

鮮やかな色どりの街並みも、派手なネオンサインも、見慣れてしまえば、四季折々の山々の森や林や田畑、堤防沿いの川面や防波堤のテトラポットと同じく、ひとつの景色です。

だから、田舎にいくと、寂しいところでしょうって、いわれたりするんですが、とくに田舎だからといって寂しいって感じはあまり受けません。

しかし、都会だからといっても、下町の商店街が、さびれていく様子は、寂しげです。

田舎でも、田んぼや畑が休耕となって雑草が生い茂っていたりするのをみると、寂しげです。

まるで、風景自身が寂しがっているようにみえるときって、確かにあります。

やはり、かっての華やかさを思い浮かべて、無常を感じるからでしょうか。

それとも、やはり、心の中が寂しがっているから、そう見えるのでしょうか。

ともあれ、夢は必ず叶う、と信じていたものが、夢は叶うべくもなく、夢は夢に終わるかもしれない、と思い始めたとき、夢は限りなく嘘に近づいていきます。

でも、嘘と夢の違いは、実現の可能性の高低ではなく、それに向かおうとする意欲と意志の強弱の違いだと思うのです。

夢を嘘にしてしまいますか。
夢は夢として持ち続けますか。

   哀しみが穏やかに扉を叩いて
   ああ いつの間に私の友達になる
   知らず知らずのうちに 自分が変わってゆく

ある朝、幾つかの嫌な夢を見て 目覚めたときに、一匹の毒虫に、自分が変わっていた…というのは、フランツ・カフカの「変身」という小説でした。

哲学的で難解な小説ですが、テーマ、モチーフとしては、自我を確立しようとする青春時代に、誰もが遭遇するようなことですね。

カフカの「変身」を出したついでに、「今日、ママンが死んだ。」という書き出して始まる、アルベール・カミュの「異邦人」も例にあげましょうか。

異邦人というのは、その地域、社会の外から来た人という意味ですから、その地域、社会になじめない、あわないと言ったことになるでしょう。

その地域、社会になじもう、あわせよう、とすれば、つまりは、自分が変わらなければなければなりません。

でも、自分が変わってしまえば、もはや自分が自分で無くなるわけですから、なんのためになじませるのか、あわせるのか、目的を失って、自分というものの存在が不条理なものになるのです。

「変身」や「異邦人」を夏休みの読書感想文用の読書として読んだときのことを思い出した人も多いかもしれませんが、何年たっても、分かったような、分からないような小説ですね。(笑)

カフカの「変身」よりも、仮面ライダーの変身の方がずっと分かりやすいですし、カミュの「異邦人」よりも、ちょっと振り向いただけの異邦人の方が、もっと分かりやすいですね。(笑)

今更アルバムなんて、欲しくはないけれど、それがあなたのひとつだけの、形見となれば別だわ…、これはさだまさしさんの「帰去来」というアルバムにある「異邦人」という曲ですが、これは、さだまさしファン以外にとっては、異邦人かもしれません。(笑)

いずれにしろ、そんな青春時代も過ぎて、やがて男性の方なら頭髪とか、女性の方ならお肌とか、あきらかに、年を経るごとに変わっていくのを実感するのは…やはり、寂しいものですかね。(笑)

   こんな日は故郷の海鳴りが聴きたい
   子供の頃の様に 涙を流してみたい
   生きるのが下手な人と 話がしたい

占い師が、あなたは生きるのが下手ですね、というと、ほとんどの人が、満足げに頷くそうです。

考えてみれば、現状の生活に、なんの不安も不満もなく、つまづきも悩みもないのならば、占い師のもとに行こうなんてあまり思わないでしょうから、あたりまえです。

それに、わたしは処世術に長けていてね、社交的で、生きるのが上手なんですよ、なんていう人には、お目にかかったことがありません。

まあ、こんな人にお目にかかっても、ほとんどの人は、目をそらしたくなりますけどね。(笑)

でも、確かに、生きるのが下手な人っています。

ほら、この青春音楽館にいつも日参しているあなた、あなたも、生きるのが下手な人ですよね。

わかりますよ、いま、とても、おつらいでしょうね…って、ほら、簡単にうなづかないのよ。(笑)

それこそ占い師マスター(館長)の思う壺ですよ。

青春音楽館特製の開運壷買います?(笑)

まあ、本当に御利益のある壷ならば、売らずに、マスター(館長)が買占めますけど。(笑)

ともあれ、生きるのが下手な人へ。

下手は下手なりに生きていくしかないのです。
いまさら、上手に生きていこうなんて、けっして思わないことです。

そして、下手だから生きるのをやめよう、なんてことも考えちゃいけないのです。
生きるのも下手だから死ぬのも下手でいいのです。

下手は下手なりでかまわないのです。

それがあなたの生き方なのです。
それがあなたなのです。

あなたがあなたらしく生きて、自分らしく生きて、なにを恥じることがありますか。
なにに遠慮がいるものですか。

   ひき潮の悲しみの中から生まれる
   ああ 夢もある わかってくれるならば
   黙って旅支度に 手を貸しておくれ

夢を嘘にしてしまいますか。
夢は夢として持ち続けますか。

いつまでも、引き続ける、ひき潮はありません。

満ち続けていた満ち潮が、勢いのあった上げ潮が、やがては、ひき潮となっていったように。

満ち潮もひき潮も、満ち引きのひとつの周期の終わりであり、終わりはまた、始まりでもあるのです。

     人生は潮の満ち引き
     来たかと思えば また逃げてゆく
     失くしたかと思えばまた
     いつの間にか戻る
                  「転宅」−さだまさし

   帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう
   帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう

帰去来…、帰りなんいざ。
ふるさとへ。

あなたがあなたであったふるさとへ。
あなたがあなたであったあの頃へ。

そして、そこからまた、生まれたての夢を抱いて、戻っていらっしゃい。



さだまさしさん、本名は佐田雅志さん、1952年(昭和27年)で、長崎県長崎市出身、國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。血液型はA型。

この曲は、さだまさしさんのソロとしては4まい目のアルバム、「夢供養」に収録されています。

「夢供養」は、「ゆめくよう」と読んでください。
けっして、「むきょうよう」とは読まないでください。
…って、さださん御自身のトークネタです。(笑)

1979年(昭和54年)発表の「夢供養」は、同年の日本レコード大賞ベスト・アルバム賞を受賞するほどに、充実したアルバムと思います。

「夢供養」を聞いたことのある人なら、御存知でしょうが、この「ひき潮」という曲は、アルバムの最後、フィナーレに収められています。

そして、アルバムの「ひき潮」の前奏部分には、さださんのふるさとである長崎の童謡である「唐八景−序」が挿入されています。

「唐八景−序」は、このアルバムの最初に収められている曲で、非常に短い曲で、次の曲「風の篝火」へと続いて、そして最後に、また「唐八景−序」が流れてきて、あれ一巡して最初に戻ってきたのかなと思わせて、この「ひき潮」が流れてくるという構成になっています。役者やのぅ〜憎いねぇ〜〜〜(笑)

(初稿2006.9 未改訂)


ひき潮

作詞/作曲 さだまさし
 
都会の暮らしは鮮やかな色どり
華やかな寂しさと夢に良く似た嘘と
そんなもので出来ている可笑しい程に

哀しみが穏やかに扉を叩いて
ああ いつの間に私の友達になる
知らず知らずのうちに 自分が変わってゆく

こんな日は故郷の海鳴りが聴きたい
子供の頃の様に 涙を流してみたい
生きるのが下手な人と 話がしたい

ひき潮の悲しみの中から生まれる
ああ 夢もある わかってくれるならば
黙って旅支度に 手を貸しておくれ

帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう
帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう

1979年(昭和54年)
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