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あの日は君の誕生日
学生街の名曲喫茶で
心おきなく話そうと
涙をこらえて約束したね
君の誕生日 二人祝ったよ
あれは過ぎた日の 想い出のひとこま
「君の誕生日」―ガロ
君とよくこの店に 来たものさ
わけもなく お茶を飲み話したよ
「学生街の喫茶店」―ガロ
2005年(平成17年)10月に閉店した梶井基次郎の小説「檸檬」に登場することで有名な「丸善」書店の京都店は河原町通蛸薬師上ルにありました。
そして、その「丸善」から東に入り、高瀬川に沿うように木屋町通りを南に下がると、木屋町四条上ルに、名曲喫茶「みゅーず」という店がありました。
「みゅーず」といえば、青春時代のシンボルのニキビとともに、P&G社の薬用石鹸ミューズの香りを思い出す人もいるかもしれません。(笑)
しかし、この店の「みゅーず」は、おそらくギリシャ神話に出てくるゼウスが、女神ムネモシュネに、歌舞音曲に長けた美しい娘たちをと願って生ませた九人の女神たちの名前からの由来でしょう。
ギリシャ語ではムーサイと呼ばれるミューズは、芸術家にインスピレーションを与える役目の女神とされ、のちには、とくに音楽の女神となって、これがミュージックの語源となったということです。
まさしく音楽喫茶にふさわしい名前の「みゅーず」は、昭和29年創業の高瀬川の岸辺に建てられた洋館風の喫茶店で、窓際の席からは高瀬川の水面が見えて、春には桜吹雪の花びらが、秋には桜紅葉の枯葉が流れていく、まさに時の流れを見つめながらの名曲鑑賞ができました。
クラシック専門の名曲喫茶でしたが、学生街の京都にあってもここは、一般の客も入りやすい立地であったために、特定の学生たちや常連客が我が物顔に入り浸って、おしゃべりする客に不機嫌そうな視線を投げかけるといった暗い閉鎖的な雰囲気はなく、開放的で明るく、好きな喫茶店のひとつでした。
その名曲喫茶「みゅーず」が、2006年(平成18年)5月に閉店したことを知りました。
青春時代に通ったジャズ喫茶、名曲喫茶、ライブハウスが、ドミノ倒しのスロモーション映像のように、次々と静かに倒れていくさまは、まさに時の流れの残酷さを見せつけられているような気がします。
君はいつも決まって
チャイコフスキーをリクエスト
少し苦めのコーヒーも
一年前と変わらない
名曲喫茶では、流して欲しいレコードの楽曲をメモ用紙に書いてリクエストすることができました。
もっとも、リクエストが多いときや、演奏時間の長い曲が多いときは、なかなか順番が回ってきません。
しかし、他の人のリクエスト曲でも、その流れている曲のレコードのジャケットを現在の演奏曲目として立掛けるような趣向の店が多くありましたので、耳にしたことのある曲の曲名を知ることもできました。
もっとも、クラッシック音楽が流れるような富裕家庭で育っていませんから、クラシック曲との出会いの多くは、もっぱら学校の音楽の時間のレコード鑑賞とテレビ番組からでした。
特に中学のときの音楽教科の女先生は、生徒に、毎週、NHKテレビのクラシック音楽番組を視聴させて、短く簡単でいいから鑑賞文を書くことを宿題にしていました。
若い美人教師ではなかったのですが、授業の合奏の楽器にガットギターを採り入れたりして、マスター(館長) がギターを弾くきっかけを作ってくれたり、また、級友におだてられてマスター(館長) が作曲した、でたらめな学級歌を補作曲してくれたりもしました。
自分でいうのもなんなんですが、自分しか言ってくれないので、自分で言いますが、マスター(館長) は、中学時代、こんなにまじめな生徒でした。(笑)
ですから、毎週、欠かさずに感想文を書きました…が、もっとも、まだビデオの普及する前の時代ですから、違う番組も見たいときなどは、新聞の番組欄から演奏曲目などを写して、音楽の参考書などの文を引用して合成しました。(笑)
カンタービレが歌うようにという意味であることがよく分かりました…とか、後半の弦楽器の競うような曲調が印象深いです…とか、女性のコンサートマスター(コンサートミストレス)をはじめて見ました…とか、まあほんとに適当に。(笑)
そんなマスター(館長) の鑑賞文に対して、ナハトムジークは英語でナイトミュージックだから、アイネ・クライネ・ナハトムジークは小さな夜の曲の意味。セレナーデとも言って日本語では小夜曲(さよきょく)とも言います…とか、似ているメロディと思ったのは、彼もロシア生まれですから、きっとロシア民謡のヴォルガの舟唄でしょう…とか、彼は日本を代表するマエストロですから、その指揮を見れたのは良かったですね、とか、まあ先生も、いまにして思えば騙されたふりをしてくれたのでしょうが、必ずコメントを付けて返してくれていました。
あの当時、もし今のように、インターネットが普及していたら、もっとバラエティに富んだ、聴きもしていないクラシック音楽鑑賞の偽装鑑賞文を書き連ねていたかもしれません。(笑)
肩まで伸びた髪を切り
耳に光ったピアスまで
大人らしくはなったけど
しぐさやくせは変わらない
校舎の新設や改修の際に、展示しなくなった学校も多いと聞きますが、むかしの学校の音楽室には、必ずと言って良いほど、クラシック曲の有名な作曲家たちの肖像画、たとえば「音楽の父」と称されるヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)などの肖像画が掲示されや、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、デスマスクさえ展示されていました。
そういえば、中学時代に級友たちと、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel)の性別が、男性か女性かで、議論したことがあります。
もちろん、それは、ヘンデルが、「音楽の母」と称されることを教わったことからの誤解なんですが、肩まで伸びた髪のヘンデルの肖像画は、バッハと同じく、小太りの中年のおばちゃん風でもありました。(笑)
大阪でなら、ヘアカーラーを巻いたままで、お昼時に、こんな風なおばちゃんが、「豚玉焼いてぇな」と、近所のお好み焼き屋に現れそうです。(笑)
もちろん、バッハやヘンデルの長い髪は、かつらだそうで、そういえば、関西ローカルのCM曲などを手がける、なにわのモーツァルト、キダ・タローさんも、かつらですが、本人はカミングアウトしていませんので、ここだけのはなしです。(笑)
元祖モーツァルト、音楽の天才、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)も、かつらを使っていましたが、当時の音楽家たちのかつらは、貴族たちの正装に合わせるために着用していたようで、肖像画を見る限りは、モーツァルトも自毛のようですね。
そういえば、「楽聖」と称されるベートーヴェンや、フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)の肖像画を見ると、かつらではなく、自毛のようですが、これは、このベートーヴェンの時代や、その後のヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)の時代になると、貴族社会などでも、かつらの流行が廃(すた)れてきたためらしいです。
なお、かつらにこだわるような記述ですが、マスター(館長) は、現在のところ、まだ自毛で十分であることを、念のため申し添えておきます。(笑)
確かなはずの愛なのに
時の流れは残酷で
二人揃いの指輪さえ
意味をなくしてむなしいよ
レコード盤に落とされたレコード針が、同心円を描くようにしながらも、しかし確実に、溝をなぞりながら、レコード盤の中心の穴に吸い込まれるように向かって進んでいきます。
決して、元には戻っていかないのです。
行く川の流れは絶えずして
しかも元の水にあらず
鴨長明−「方丈記」
確かに、あのときは、管弦楽に対抗するかのようにして力強く自己主張するピアノの調べのピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky) のピアノコンチェルト(協奏曲)に魅力を感じ、感動していたことに、うそはないはずです。
しかし、いつしか、管弦楽を従えるかのように、優雅に華麗に独奏するピアノの調べのショパン(Frederic Chopin)のピアノ協奏曲(コンチェルト)にも、また魅力を感じ、心を震わせたことにも、うそはないはずです。
想い出たちは、季節の移ろいというオブリガート(助奏)をまといながら、時の流れの中を流れていきます。
でも、自分という存在(self identity)は、いつでも第一主題の中で奏でられる主旋律なのです。
ときとして、転調や移調することも、あるいは長調から短調に移旋することもあるでしょう。
いつものモデラート(Moderato=中くらいの)速さではなく、ときに、アダージョ(Adagio=ゆるやかに)で、ときにアンダンテ(Andante=歩くような速さで)、そしてアレグロ(Allegro=快速に)になることも。
また、ときにドルチェ(dolce=甘美に)で、ときに レガート(legato=滑らかに)、あるいはカンタービレ(cantabile=歌うように)になることもあったとしても。
でも、本質の部分は変えようもありません。
やはり、自分は自分なのです。
自分が主人公なのです。
心なしか君が小さく見えた
いつの間にか僕は強くなっていた
風花舞う冬枯れの街に
ピアノコンチェルトはもう聞こえない
だから、もはや聞こえなくなったことを、いつまでも嘆き続けるのではなくて、自分が奏でるメロディを、自分しか奏でられないものを大切にして、新たな出会いの中で、自分の思うがままに、人生というステージで奏でることが大切だと思います。
そう、あなたのタクト(指揮棒)の思うがままに。
この「ピアノコンチェルトは聞こえない」は、大塚博堂さんの4枚目のアルバム「LOVE IS GONE」に収録されています。
大塚博堂さん、1944年(昭和19年)3月22日大分県別府市生まれ、1972年(昭和47年)にプロデビューするもヒット曲に恵まれず、32歳の1976年(昭和51年)になって「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」のヒット曲で世に認められました。
その後、5年間の活躍後、1981年(昭和56年)5月18日に脳内出血のために、37歳で急逝されました
マスター(館長) としては、大塚博堂さんを注目したきっかけは、やはり「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」からなんですが、名曲喫茶で、マスター(館長) がチャイコフスキーのピアノ協奏曲をリクエストしていた偶然で、まるで自分の事を歌っているかのような気がしたので、この曲が特に印象深いのです。
えっ、誰と聴いたかって?
えっと、それは、高瀬川の水に流して、聞き流してくださいって。(笑)
「ピアノコンチェルトは聞こえない」の曲の最後にエンディングに挿入されているピアノコンチェルトは、もちろろん、ロシアの作曲家、チャイコフスキーのピアノコンチェルトで、正確には、ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23の第1楽章(序奏)です。
チャイコフスキーの曲としては、バレエ音楽として、「白鳥の湖」、「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」や弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11「アンダンテ・カンタービレ」、交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」などが有名です。
(初稿2007.12 未改訂) |