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夏休みの職員室。
部室の鍵を借りに入ったぼくは、入り口近くの掲示板のポスターを貼り直している先生と目があった。
「あれ、N、今日は部活なの?。」
声をかけてくれたのは、一年のときの副担任で、日本史の女の先生のHだった。
クラスの男子女子を問わず、名前に、君やさんをつけずに呼び捨てにするのは、体育会系でない文科系のぼくには、かなりの驚きで、それまでに会ったことがないタイプの教師だった。
ぼくはうなづいて、「鍵をとりにきました。」と言って、彼女のそばを通り過ぎようとしたときに、彼女がとめかけていた押しピンが、ピシッと勢い良く鋭い音を立てて外れ、ぼくの足元に転がってきた。
ポスターがパラリとめくれて、慌てて両手で押さえている彼女に、ぼくは押しピンを拾って近づき、その押しピンを力いっぱい掲示板に押し込んだ。
「N、ありがとう、助かったわ。さっきから、このポスターが、風でなんども剥がれかけて、困ってたのよ。」
そう言って彼女は、一歩下がって、貼り直し終えたポスターを眺めた。
「教え子を再び戦場に送るな」という文字が大きく書かれてあり、そして、いわさきちひろの描いた子どもの絵が添えられた図柄のポスター。
ぼくは、それがなんとなく懐かしい風景を見るような気がして、何気なく、「教え子を再び戦場に送るな」という文字を、声を出して読んだ。
「あらっ、Nは、このスローガン知ってるんやね。」
ぼくは、小学校の頃からか、なんどか、学校や街角で、こんな感じのポスターを見ていることを告げた。
「そういえば、Nたちは、このスローガンが生まれた1951年には、まだ生まれてなかったんやね、もっとも、わたしもまだ、学生の頃やったけどね。」
そういって、彼女は、遠い日を眺めるような目つきをして、窓の外をちらっと見た。
蝉時雨の中を、演劇部の女性部員たちが、発声練習をしながらランニングしているのが見えた。
今でも僕は思い出すのさ
あの時のことあの日君
僕と同じ学生だった
国のためと死んでいった
1951年(昭和26年)1月24日、日本教職員組合、いわゆる日教組は、「教え子を戦場に送るな」の運動方針を決定し、反戦平和への活動に取り組んだ。
1951年(昭和26年)といえば、第二次世界大戦の連合国側49か国との間で日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されて、ここに至り、連合国との戦争状態が終了し、アメリカによる占領が終わって、主権を回復することになる。
同時に、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、いわゆる日米安保条約も締結された年だった。
その前年である1950年(昭和25年)は、GHQの指令により、いわゆる「アカ」と呼ばれた共産党員とシンパ(同調者)を公職や企業から追放するレッドパージ(red purge)、いわゆる赤狩が行われて、やがて朝鮮戦争が勃発し、自衛隊の前身である警察予備隊が発足するという状況であった。
「でも、今から思えば、あの頃の日教組には、まだみんな危機意識があって、まともな人も多かったんだなって思うよ。」
彼女が、日教組においては、共産党系反主流派にあたる日本高等学校教職員組合の左派の幹部であることは知っていたが、生徒に対して、そんなことを語ることに、ぼくは少し戸惑っていた。
「そうや、Nに、これあげようか。」
彼女は机の脇机から、少し黄ばんだ藁半紙の印刷物を取り出して、ぼくに見せた。
その紙には、労働歌のような歌詞とともに、次の詩が印刷されていた。
戦死せる教え児よ
竹本源治 作
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ!
君の縊(くび)ったその綱の端を
私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」と
言訳がなんでできよう
慚愧 悔恨 懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
「この詩は、戦前の教育、お国のために、天皇のために死ぬこと、つまり皇国史観に基づく軍国主義教育に手を貸して、教え子を戦場へ送ってしまった高知県の中学校の先生が作った詩よ。」
その藁半紙の印刷物を二つに折ってから、ぼくに手渡しながら、彼女はなおも言葉を続けた。
「そんな思いの先生たちが、戦後、集まって、それを悔いて反省し、もう二度と、そんな悲しいことが起こらないようにと、平和と民主主義の教育を推進することを決めたのよ。でも、それが、いままた危なくなってきているような気がするのよ。」
彼女はそれから、脇机から新書本を取り出して、ぼくの前に並べた。
「日本史の参考書として何がいいかって、尋ねていたでしょ、受験参考書として適当かどうか分からないけど、この本なんかいいかなって思う。」
彼女が並べたのは「日本の歴史」と書かれた岩波新書の3分冊だった。
「その井上清という京大教授は、私が在学していた頃はまだ助教授で、いまは変わってしまってダメになったけど、その本を書いていた頃は、まともなこと書いているから、Nには推薦するよ。」
その本は、マルクス主義の唯物史観に基づく日本の歴史書であり、通説と異なる記述もあった。
偏向しているといえば偏向しているかもしれない。
ただ公正中立を装ったものよりも、旗幟鮮明な立場で書かれたものの方が、洗脳の危険性はあるにしても、より真実に近づける場合もある。
受験参考書としては不適当であったが、記述する立場が一貫しているから、興味深く読める本だった。
それから彼女と、学生運動のこと、共産党のこと、受験のこと、将来のことを、いろいろと話をしてくれて、部活の時間が迫って、去り際に彼女は言った。
「Nには期待しているよ。頑張って。」
しかし、結局、ぼくは、彼女の期待を裏切って、民青同盟(日本民主青年同盟)に加わらないどころか、その後、反旗を翻すような活動をしたし、また大学でも、教職課程を選択せず教師にもならなかった。
でも、彼女に出会えたことは、自分の思想・信条を固め、信念を高めるのに、大いに役に立ったと思う。
最後に会ったのは大学時代で、すでに鬼籍に入られたと聞いているが、彼女には感謝している。
日教組は、1991年(平成3年)、日本労働組合総連合会(連合)加盟に反対する組合が離脱して、日本高等学校教職員組合の左派(日高教左派・一橋派)とともに、全日本教職員組合(全教) を組織して、分裂した。
時代の変化と流れの中で、やむをえないと思うが、平和と民主主義、教え子を再び戦場に送らないという理念だけは、共有していってほしいと願わずにはいられない。
君は若くたくましく
短い命だったが
まぼろしの翼と共に
炎の中に消えてしまった
かっての日本には、満20歳の男子は徴兵検査を受けて、身体能力別に甲乙丙丁戊の五種類に分けられ、甲から順次徴兵されていく制度があった。
この徴兵時に来る命令書が、いわゆる召集令状で、その紙が赤いので、「赤紙」と呼ばれた。
すでに、1938年(昭和13年)には、戦争遂行のために、国家のすべての人的・物的資源を、政府が統制運用できることを規定した国家総動員法が施行されていたが、学生などは徴兵が猶予されていた。
しかし、1943年(昭和18年)には、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定されて、「国家存亡のとき、学生もペンを捨てて入隊せよ」とのスローガンの下に、徴兵年齢に達した大学・高等専門学校の学生(理工科系・教員養成系以外)も徴兵された。
そして、いわゆる神風特攻隊で知られる体当たり自爆攻撃の特攻隊の悲劇へとつながる。
中心となったのは、学徒動員で予備士官になった10代後半から20歳前後の若者だった。
特攻は志願を建前としていたが、戦時の時流の中では、果たして本人の真意がどこにあったのか、真紅の血を流し、燃え盛る真っ赤な炎の中に消えてしまった、いまとなっては、それは残された遺書などから推測するしかない。
しかし、彼らが、あの時代を、あのようにして生き、死んで逝ったことは、世界中から戦争の参加が根絶されるまで語り続けていかなければならないと思う。
君はあの時私に言った
恋人と別れてきたと
僕は今も覚えているさ
あの時君のまなざし
多くの悲しいドラマがあったと思う。
そして、そのドラマを、ただ単に、お国のために命を捨てた純粋な若者たちの愛国心物語と、美化するだけでは、ぼくは彼らが浮かばれないと思う。
彼らのことを忘れてはいけない。
そして、彼らに、報恩感謝しなければならない。
その上で、彼らが死ななければならなかったのは、いったい、なぜだったのかを、問い続けなければならないと思う。
君が死んだ次の夜に
かなしい涙であの娘は死んだ
もういやだこんな世界は
もう二度と見たくない
特攻隊として散華した恋人のあとを追うようにして、死んだ女性も多かったらしい。
また、特攻隊として戦地に赴く夫や、恋人のために、彼らが、後顧の憂いなく、心置きなく死ねるようにと、彼らより先に自殺した女性もいたということだ。
こんな世界はやはり間違っている。
こんな世界はやはりもう二度と見たくない。
だから忘れずに、問いかけ続けたい。
いつもの夏に、あの日の夏を…。
「五つの赤い風船」は、大阪出身の西岡たかしさんを中心としたフォークグループで、1967年に結成し、1972年に解散しました。
「五つの赤い風船」と「赤い鳥」と「紙風船」とが、ごっちゃに混同されている方も多く見受けられますので…、あとは自分で調べてください。(笑)
「五つの赤い風船」には、学校の音楽の教科書にも採用された代表曲「遠い世界に」があり、またこの「まぼろしの翼と共に」のほか、「血まみれの鳩」という反戦歌の名曲もありますが、こちらは、かなり暗くマイナーな曲調で、元気なときにしか聞けません。(笑)
(初稿2005.7 未改訂) |