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「雪」―中島みゆき

1990年の雪の降ったある日。

お昼過ぎから姿が見えなかったN原さんを、見つけたという連絡があったのは、夕暮れ間近でした。

駆けつけると、N原さんは、正面玄関の階段に腰を降ろして、遠くの方をぼんやりと眺めていました。

遠くの高層ビルが、雪でかすんで見え、近くの公園がうっすらと雪化粧をしていました。

階段には庇(ひさし)がついているものの、吹雪いている雪は、N原さんの頭や肩に容赦なく降りかかっていて、一緒に駆けつけた上司とともに、その雪を払いのけて、抱きかかえるようにして部屋に連れ帰りました。

一月も下旬の頃で、そろそろ年度末を控えて、ぼくたち財務や経理関連の部門は、多忙な時期を迎えようとしていた頃でした。

彼の様子がおかしいのではと、他部門の人から耳打ちされたのは、年始めまもない頃のことでした。

それまで彼は、来る四月のぼくと彼との人事異動のことについて、人事部門にいた経験を交えながら、いろいろと話してくれました。

しかし、数週間前から、ひとりごとが増えて、急に沈黙したり、逆に饒舌になったりして、精神的に不安定な様子だったのは、なんとなく感じていました。

「秋田のばっちゃんは、立派な人だよ、素晴らしい人だよ。あんな人は、ほかにはいないよ。」

なんの脈絡もなしに、だれかれ無しに、そんなことをつぶやくことが多くなりました。

小児喘息の持病があったという彼は、複雑な家庭の事情もあったのか、中学の頃まで、秋田の母方の祖母に預けられて育ったということでした。

ぼくの妻が青森の出身で日本海という寝台特急で帰省するという話を以前にしたときに、東北つながりということで、そんな話を聞かされました。

青森でも、おばあちゃんと呼ぶのではなく、ばっちゃんと呼ぶらしいというと、「そうか、東北の方はそうかな。秋田も、ばっちゃんとか、ばさまと呼ぶんやで。」と、懐かしむような笑顔を見せていました。

N原さんは大学の先輩でした。
もっとも、先輩といっても、五歳年長だったので、直接には出会ったわけではなく、しかし、たまたま同じ学部のしかも同じゼミだったということで、コーヒー一杯で、よく先輩風を吹かせていました。

共通の親しい人から、N原さんが、先輩風を吹かせながら、陰では、ぼくの悪口を言っていることを忠告めいて聞かされましたが、それは聞かなかった振りをしていました。

N原さんは、ぼくよりあとに、同じ係に配属されて、係業務ではぼくが先輩であり、また法務主任という役をぼくは持たされていましたから、先輩ながら役の無いN原さんには、ぼくとしては、ぼくなりに、かなり気をつかっていたつもりでしたが。

うちの会社には、昇任試験というものがあって、その試験に合格しなければ、管理職に登用されない仕組みになっていて、N原さんは、真面目に試験勉強を続けていたものの合格していませんでした。

「ぼくは落ちこぼれやけど、N君は頑張れよ。」

N原さんにそういわれて励まされていたものの、ぼくとしては、役職をこなす体力的な自信もなく、かといって受験拒否して逆に目立ちたくもないので、試験には、そこそこに対応していたような感じでした。

ところが、同時に二人とも合格したのです。
ぼくの方としては、思いがけないラッキーという感じでしたが、彼の方にすれば、長年の苦労がようやく報われた念願の合格だったのでしょう。

年末の幹部会の忘年会では、二人ともひな壇に座らせてもらったのですが、N原さんは、となりのぼくが恥ずかしくなって中座したくなるほど、やけに、はしゃぎすぎのような感じすら受けたのですが…。

   雪 気がつけばいつしか
   なぜ こんな夜に降るの
   いま あの人の命が
   永い別れ 私に告げました

しかし、結局、あの雪の日から病気休暇に入って、しばらくして、うつ病という診断書が提出されて、N原さんは病気休職することになりました。

N原さんの仕事をみなで分担して、なんとか年度末を乗り切り、そして、ぼくは昇任して情報部門に異動、もちろんN原さんは、昇任留保で残留になりました。

初夏の頃だったと思いますが、N原さんが復帰されたと聞いて、元の職場を訪ねました。

N原さんは、やや痩せて、やつれたように見えましたが、しかし元気そうでした。

「薬のせいか、病気中の当時の記憶が、まったく飛んでいて覚えていない。聞くところによると、N君にもかなり迷惑をかけたようやな。」

そういって、ぺこりと頭を下げられました。
その動作を制して、「気にしないでください。」と言ってから、ぼくは病状のことを尋ねました。

「まだ二週間に一度くらい、通院しているけれど、薬も徐々に減らすようにして、完全治癒をめざしてる。」

前向きな明るい表情だったので、ぼくは、何の気なしに、「それは良いですね、もう少しです、頑張ってくださいね。」と、N原さんに告げて、別れました。

それが永の別れになるなんて、思いもせずに。

   あの人が旅立つ前に
   私が投げつけたわがままは
   いつかつぐなうはずでした
   抱いたまま 消えてしまうなんて

N原さんが、自ら命を絶ったという連絡があったのは、それから、一年も経たない頃でした。

再発、休職、復帰を繰り返してのあとでした。
享年40歳でした。

真面目で優秀という評判にも関わらず、なかなか昇任試験に合格できないというのが、ひとつの重圧として、彼にずっとのしかかっていたのでしょう。

そして、やっと解放されたと同時に、今度は昇任後のことにさまざまに思いをめぐらしすぎて、先読みし、深読みをして、それがまた違った重圧として、繊細な神経を蝕んだのでしょうか。

そんな彼に、知らなかったとはいえ、「頑張ってください。」と、言ってしまったことが悔やまれます。

薬に依存してはだめだ、薬を減らさなければ、という彼のあせりを、感じ取ることができずに、薬を減らせるなら良いですね、と言ったことが、悔やまれます。

うつ病は病気です。
病気だからこそ、医師の適切な指導のもとに、薬をしっかり飲んで治療すれば、治癒できるものです。

ドーパミンやアドレナリンなどの脳内物質が変調を起こしているとするモノアミン学説や、そのモノアミンを受け入れるレセプターが変調を起こしているとするレセプター学説などがありますが、うつ病の原因は、まだはっきりと分かっていません。

しかし、はっきりしているのは、そういった身体機能的な異常によるものであって、けっして、心の持ち方や考え方を変える、生活習慣を改めて、気分転換を図ることなどだけで、治るものではないということです。

風邪を引いてしまってから、薄着をしたり水風呂や乾布摩擦で身体を鍛えようとするのが、おかしいのと同じように、まず、うつ病になったと思ったら、適切な医療機関で受診し、薬を飲んで、ゆっくりと安静にして、充分に睡眠を取るということが必要です。

ある意味で、ぼく自身が、うつ的体質の素養があると思うからこその、自戒を込めての話です。

しかし、N原さん、彼が見た雪は、いったい、どこに降る雪だったのでしょうか。

   手をさしのべればいつも
   そこにいてくれた人が
   手をさしのべても消える
   まるで 淡すぎる 雪のようです

2006年の雪の降ったある日。

年明け早々の休日に出勤をしていた職場に、午後になって、上司が慌ただしく、やってきました。

「K原さん、やはりダメだったよ。さっき、ぼくの携帯にK原さんの奥さんから、電話連絡があった。午前11時過ぎに、K原さん、息を引き取られたそうや。」

食道がんで入院中のK原さんの病状が思わしくないということは年末に聞かされていました。

年始早々には、ICU(intensive care unit=集中治療室)に入ったということで、ある程度は覚悟せざるを得ない状況でしたが、その後、ICUから一般病室に移られたという連絡があったので、あるいは持ち直すのではと、期待していた矢先でした。

「Nさん、連続して休日出勤のところを悪いが、訃報の手続きとかを分担して手伝ってくれないか。」

そう言った上司に頷き返しながら、窓の外を見ると、大阪ではめずらしく小雪がちらついていました。

三年近く前のK原さんとの初対面の印象は、あまり良くありませんでした。
総務の仕事は始めてで不慣れな対応しかとれなかったぼくに、総務の仕事に精通している彼は、あれこれと注文をつけてきました

自分に対することなら我慢もしたものの、彼の提出した書類の不備不足を伝えにいった部下の女性に、かなりきつい言葉を投げかけたようで、その彼女が涙ぐんで帰ってきたことで、ぼくは思い切って、彼のところに抗議しに行きました。

「総務の勉強不足、不手際で、二度手間を取らせるのは申し訳ないが、きつい言い方で、K原さんに言われたと、彼女は泣いて帰ってきましたよ。」

ぼくがそういうと、K原さんは、少しむっとした表情で、ぼくをにらみつけました。

「そんなきつい言い方はしていないがな。でも、わかった、あとで、もいちど総務に行くから。」

そう答えたので、周囲の視線もあり、ぼくはぺこりと頭を下げて、席に戻りました。

それからしばらくして、彼が総務のところにきて、彼女がいるのを横目で見ながら、ぼくに言いました。

「わしはきつい言い方するっていつも誤解されて言われるが、そんなきつい言い方した覚えも悪気もないよ。いわば、そんな言い方しかできんのがわしや。ともかくな、書類は来週、病院に行くときにもらってくるから、それまで待ってくれるか。」

確かに言い方はきついものの、あれ、この人は案外に良い人なのかもしれないと思った瞬間でした。

いまから思えば、背中が少し痛むと受診した病院で、晴天の霹靂のように、思いもよらぬ食道がんの宣告を受けて、初めての手術間近のいらだちもあった頃だったのでしょう。

その後、手術をして、検査入院、治療入院を繰り返して、いくどとなく病気休暇を取得していたのは、回ってくる届出書類を見て知ってはいました。

そんな彼と、まさか総務で、一緒に仕事をすることになるとは思いもしませんでした。
振り返れば、わずか八か月足らずでしたが。

人員削減された総務の係に、人員外としての仮配置ながら、病欠がちの彼が配属されたのです。
彼の希望だったようです。

猫の手も借りたいと、少しでも人手が欲しいと、思う反面、病気で中途半端な仕事となって、かえって仕事が増えるのではないかと危惧もしました。

しかし、春先から始めた新しい治療が効果を上げたのか、めきめきと元気を回復して、遅めの初夏に開いた歓送迎会では、多少の酒と煙草をたしなんで、かなり上機嫌でした。

仕事も、責任感を持って、律儀にこなして、想像以上に、なんでも前向きに取り組まれていました。

彼から見れば、後輩で年下ながら、上席になるぼくにも、随分と気をつかってくれたのでしょう。

仕事の都合がつかずに、病院の予約のキャンセルを電話連絡しているぼくに、それを聞きとがめた彼は言いました。

「わしが代わりにやれる仕事があるなら、遠慮のう言うてや。一日くらいなんとかなるから。ほんまNさん、病院行かんと大丈夫なんか。」

子どものときからの先天的な慢性疾患で、数ヶ月に一度の定期的な通院だから、多少遅れても大丈夫とぼくが答えると、彼は頷きながら言いました。

「わしは子どもの頃から丈夫で病院に行かんでもよかったし、病院嫌いやった。まあ行こうにも山奥で、病院がなかったけどな。こんなに、通院しなあかんようになるなんて、思いもせんかったな。」

そして、少し遠くを見るような目をしてから、彼はわれに返ったように、ぼくに言いました。

「総務の仕事はきりがない。Nさんは、気がつきすぎて優しすぎるから、多くを抱え込むことになる。適当に突き放して、人に仕事を振っていかなあかん。」

高校卒業後、ひとり田舎から出てきて就職し、独身寮に住み、夜間の大学に通って、昇任試験にも早い時期に受かり、体調を崩すまでは、ばりばりと仕事をこなされていたようです。

おそらくは、経験に即して、自分に対しても同じ思いの自戒を込めてのアドバイスだったのでしょう。

   あの人が教えるとおり
   歩いてくはずだった私は
   雪で足跡が見えない
   立ちすくむ あなたを呼びながら

三度目の再発が確認されたのは、長い夏が終わって、足早にやってきた、晩秋の頃でした。

たちの悪い咳と声のかすれが目だってきました。

「悪いな。年末の忙しい時期なのに。ごめんな。」

週末の帰り間際でした。
いよいよ来週から検査入院をして、また新しい治療を始めるというK原さんは、仕事の整理のために、居残っていました。
ぼくも、明日の休日出勤の立会いの段取りや手順を確認するために、居残っていました。

そして、ぼくとK原さんは、勤務時間外は灯りの消えている喫煙場所で、ふたりで煙草をくゆらせながら、少し話をしました。

「遅くとも仕事納めの前には出てきたいな。」

そういう彼に、ぼくは念を押すように言いました。

「無理をせずに、ゆっくりと休んで、年末年始休暇のあとの年明けからで、仕事始めからで、いいんとちゃいますか。」

彼は、うんうんと頷きました。

そして、ぼくは帰り支度をして、その喫煙場所の前を通ると、まだ彼が他の人と話し込んでいたので、声をかけました。

「K原さん、ぼくは先に帰らせてもらうよ。気がついたことあったら、机にメモをおいといてくれたら、やっておくから。じゃ、お先に。」

了解の合図に軽く手をあげたK原さんを見て、階段を降りかけたときに、ぼくは、なにか、後ろ髪を引かれるような思いがして、また戻りました。

「なんや、忘れ物したんか。」

そう尋ねた彼に、ぼくはささやくように言いました。

「うん、忘れ物やねん。今日が年内最後になるかもしれないのに、K原さんに、年末の挨拶しとくの忘れたのに気がついた。K原さん、良いお年を。」

彼は微笑を見せながら、答えてくれました。

「ああ、そうか、うん、おおきに、ありがとさん。うん、Nさんも、良いお年を。」

そういって別れたのが、本当に最後の、永の別れとなりました。

入院後、肺炎を併発し、呼吸を楽にするための気管切開の術後の出血が止まらず、その大量出血による急激な体調変化により、家族に見守られながら、静かに息を引き取られたそうです。

末期がんの激痛を気にしておられたK原さんにとっては、まだ痛みの緩いときで、それが唯一の救いなのかなと、思うよりほかに言葉がありません。

葬儀は故人の意向もあって、実家のある岡山、しかも、訳あって、ご令室の実家で行われました。

岡山といっても、蒜山高原の近くで、山を越えれば、島根、鳥取の方が近いような場所であり、K原さんの実家は、さらにそこからもっと山深い、積雪の多い地域とのことでした。

遠方でもあり、職場を代表する上司と、親交の深かった職場の数人だけが参列されました。

ぼくは告別式の始まる時刻に、ひとり社屋の屋上に出て、合掌して、冥福を祈りました。

彼が思い描いた未来は、あと一年あまり、大学三年になる一人息子さんが卒業して、ひとり立ちできたら、退職して、夫婦で実家に戻って、ゆっくり余生をと、考えられていたようです。

享年54歳、早すぎる旅立ちでした。

我が国の三大疾病といえば、「がん」、「 急性心筋梗塞」、「脳卒中」といわれていますが、がんは、1981年(昭和56年)から、脳卒中にかわって、死因の第一位となり、日本の死亡者のおよそ三人に一人が、がんで亡くなっていることになります。

がんの診断、治療と予防についても、遺伝子レベルやがんウィルスなどの研究が進められ、手術や抗がん剤などの治療技術面でも着実に進歩していますが、いまだ、がん征圧までには至っていません。

現在のところ、予防のための生活習慣の改善と、早期治療開始のためのがんの早期発見が、もっとも有効な手立てとなっています。

K原さんの場合、喉の痛みや咳の頻出は、喫煙や飲酒の生活習慣によるものと考えて見逃してしまい、ようやく背中の痛みがとれないという自覚症状から、食道がんが発見されたそうです。

そういえば、K原さん、彼が病室から見た雪は、山奥の故郷に降る雪と同じだったのでしょうか。

   雪 気がつけばいつしか
   なぜ こんな夜に降るの
   いま あの人の命が
   永い別れ 私に告げました

  太郎をねむらせ 太郎の屋根に雪ふりつむ
  次郎をねむらせ 次郎の屋根に雪ふりつむ
                  「雪」−三好達治

肉親、親類、友人、知人、近所の人、職場の人…、人は、一生涯のうちに、いったい何人の人と、永の別れをすることになるのでしょうか。

人間の何千年の歴史の中で、奇しくも同じ時代に生まれて、同じ時代を生きてきた人たち。

好きだった作家や俳優、アーティストなどの著名人も含めれば、枚挙にいとまがありません。

また大きな災害や事故で亡くなられた方々を思えば、より多くの人と永の別れをすることになります。

でも、確実にいえるのは、自分もやがては、見送られる側に立ち、永の別れをすることになるのです。

生あるものはかならず死ぬのです。

いつかは、ぼくらも、先立って逝った人たちと、おなじ道のりを歩み、そしてまた彼らとめぐり合うのでしょう。

だからこそ、残されたぼくらは、いつまでも、悲しみにくれることなく、絶対にあせらずに、死ぬまでは、生きることにしましょうね。(微笑)




この「雪」という曲は、中島みゆきさん8番目のアルバム「臨月」に収録されています。

この「雪」という曲の中に出てくる「あの人」そして「あなた」とは、恋人のことと思われるかもしれませんが、実は中島みゆきさんの「父親」ということです。

中島みゆきさんのお父さんは、北海道帯広で産婦人科医院を開業されていましたが、中島みゆきさんが、「アザミ嬢のララバイ」でデビューしたあとに、脳溢血で倒れられ、そして翌年に亡くなられました。

そのお父さんの死より、数年の歳月が流れて、父の死へのレクイエム(鎮魂歌)として、それが、この曲、「雪」として、結晶したのだと思います。

愛する者の死への行き場のない悲嘆の慟哭から、残された者の生へのうずくような喪失の悲哀へと、想いは移ろいゆきます。

鮮やか色した故人の想い出たちが、あたかも降りしきる雪の日の景色のように、すべてがモノトーンへと変わっていきます。

しかも色褪せながらも、くっきりとした影を残して…。

そして、それを、包み込むように雪が、静かに、静かに、降り積む、降り積む、降り積む…。

(初稿2006.1 未改訂)




作詞/作曲 中島みゆき

雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました

あの人が旅立つ前に
私が投げつけたわがままは
いつかつぐなうはずでした
抱いたまま 消えてしまうなんて

雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました

手をさしのべればいつも
そこにいてくれた人が
手をさしのべても消える
まるで 淡すぎる 雪のようです

あの人が教えるとおり
歩いてくはずだった私は
雪で足跡が見えない
立ちすくむ あなたを呼びながら

手をさしのべればいつも
そこにいてくれた人が
手をさしのべても消える
まるで 淡すぎる雪のようです

あの人が教えるとおり
歩いてくはずだった私は
雪で足跡が見えない
立ちすくむ あなたを呼びながら

雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました

1981年(昭和56年)
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