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「ゆうこ」―村下孝蔵

   水無月の夏越しの祓する人は
         千歳の命延ぶとこと聞け
                    「水無月祓」 世阿弥

陰暦六月の異名は、水無月(みなづき)といいます。

田植が終わって、田んぼに水を張る必要のある月だから「水張月(みづはりづき)」、あるいは「水月(みなづき)」、また陰暦六月ということは、梅雨が明ける頃になるので、文字通り、水の無い月の意味であるとも言われています。

   水無月は腹病やみの暑さかな 松尾芭蕉

いずれにしろ、年末12月に大晦日があるように、ちょうど、一年の折り返し地点である6月の晦日の日に、これから暑い季節を迎えるにあたり、食中毒などの悪疫退散を願って、みなが無事に夏を乗り越えるようにと、夏越祓(なごしのはらえ)、あるいは、水無月祓(みなづきのはらえ)といわれる神事が行われ、無病息災を祈願します。

もっとも、庶民には、そんな神事よりも、白い外郎(ういろう)を三角に切りとり、疱瘡よけの力があるとされた赤い色の小豆を載せて、本葛をかけた厄除けの和菓子、水無月(みなづき)を食べる方がなじみがあるかもしれません。

まあ、水無月(みなづき)を、食後のデザートに、ふたつ、みつ、ぺろりとたいらげる食欲があれば、夏痩せはしませんでしょう。(笑)

   記憶の陰に ぽつりと座り淋しげに
   白い指先 ピアノを弾く女(ひと)

ところで、水無月6月は、英語では、いわゆる「6月の花嫁」である「ジューンブライド(June bride)」のジューン(June)と呼びます。

このJuneというのは、ローマ神話のジュピター(ユピテル)の妻であるジュノー(Juno−ユノーともいう)の名前が由来で、ジュノーが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚をした花嫁は、女神の祝福を受けて、幸せになるといわれています。

しかし、ジュピターは、ギリシャ神話では、全知全能の神、ゼウスと呼ばれており、その妻、ヘラは、夫ゼウスの浮気に、執拗なまでの嫉妬の炎を燃やす女神として描かれています。

だから、ジューンブライドというのは、女性の新婦側はともかくとしても、必ずしも新郎の男性にとって…、いやいや、浮気夫を擁護してはいけませんね。(^^ゞ
あはは、ともかく、幸多かれと祈ります。(笑)

もっとも、日本では、6月にならなくとも、5月2日の八十八夜を過ぎれば、幸せになる…の…かも(^^ゞ

     もうすぐ八十八夜 もうすぐ暖かくなる
     もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる
                     「八十八夜」―N.S.P

いずれにしろ、夢見る季節、憂鬱な季節、華やかな季節、失意の季節、さまざまな季節を迎えて、また送ることができるのも、生きていればこそ…。
生きていればこそ、また季節はめぐるもの…。
ひとつの辛い季節だけで望みを絶たないで…。

   『ショパンが好きよ 悲しい調べ奏でれば
   恋のできない 私に似合い』といった女(ひと)

     耳をふさぐ 指をくぐり
     心 痺らす 甘い調べ
     止めて あのショパン
     彼にはもう会えないの
       「雨音はショパンの調べ」 小林麻美/松任谷由実

ショパン…、フレデリック・フランソワ・ショパン (Frederic-Francois Chopin (1810-1849)は、フランス人を父に、ポーランド人を母にして、ポーランドのワルシャワに生まれました。

ロマン派音楽を代表する作曲家として、ときに鍵盤を叩くような激しい恋をしながらも、雨音の調べにも似たような短い生涯を、ショパンは、数多くのピアノ曲の作曲にささげて、ピアノの詩人(Poet of the piano)とも呼ばれています。

そしてその詩人は、39歳の若さでパリにて永眠。

   言い出せない愛は 海鳴りに似ている
   遠くから絶え間なく寄せ 胸を強く揺さぶる

日本人のショパン好きは、有名だそうです。

ショパンのピアノ曲の繊細なメロディと、感傷的なハーモニー、哀愁を帯びたリズムが、日本人の音楽の感性に合うのかもしれません。

そういえば、我が国でよく流れているショパンの曲の多くは、別れの副題がついています。

 エチュード(練習曲)3番 ホ長調 「別れの曲」  
 ワルツ9番 変イ長調 「告別」(別れのワルツ) 
 ポロネーズ15番 変ロ短調 「別れ」 

さらに、ショパンは生涯において、ピアノソナタを三曲残していますが、そのうち、もっとも有名なものはピアノソナタ2番です。

ピアノソナタ2番「葬送」 第3楽章「葬送行進曲」

やはり、別れの曲です。
それも永の別れの曲…。

そして、ぼくたちは、39歳のショパンと永久(とわ)の別れをしたように、46歳の彼とも、早すぎた別れをしなければなりませんでした。

彼は、1953年(昭和28年)2月28日、熊本県に生まれ、生家が映画館を経営していたために、映画の影響でギターに魅せられ、九州を離れて、広島でピアノの調律師としての道を歩みます。

そして、そのかたわらに、自主制作アルバムのレコーディングをし、1979年(昭和54年)、CBSソニーオーディションにて、最優秀アーティストに選ばれて、翌年「月あかり」でデビューしました。

そして、1982年(昭和57年)に「ゆうこ」で注目を集め、次の年に「初恋」「踊り子」が大ヒットしました。

1999年(平成11年)、デビュー20周年を迎え、意欲的な活動をしていた彼は、6月20日、恒例の七夕コンサートのリハーサル中に倒れて、6月24日、高血圧性脳内出血により、急逝されました。

享年46歳でした。

彼…、そう…、村下孝蔵さんです。

ショパンが作曲家であり、またピアニストでもあったように、村下さんも、また優れたギタリストでした。

ショパンが、同時代の作曲家たちの誰よりも、ピアノが好きであったように、村下さんもギターを、そして音楽をこよなく愛していました。

好きこそものの上手なれといいますが、エレキギターの神様といわれる寺内タケシさんにも比肩するくらいのギターのテクニックは、まさに卓越していました。

もちろん、天才は努力の異名だと思います。
そのテクニックの習得には、生来の素質もさることながら、地味な練習があったことを、かって村下さん自身が話されていたことがありました。

実質的に村下さんを世に送りだした、この名曲「ゆうこ」…村下さんの訃報にあった喪主の名前が奥様の「裕子」さんでした。

のちに「裕子」と書いて「ゆうこ」ではなく、「ひろこ」とお読みするらしいと分かったのですが、でも、なにか思い入れがあったのかもしれません…。

ぼくは、とくに熱心な村下ファンではなかったのですが、ちょうど「初恋」がヒットした1983年(昭和58年)頃に、新車に乗換えてのデートドライブで、カーステレオでよく聴いていたのが、村下孝蔵さんの歌でした。

    放課後の校庭を走る君がいた
    遠くで僕はいつでも 君を探してた
    浅い夢だから 胸を離れない
    胸を離れない 胸を離れない
                    「初恋」−村下孝蔵

    答えを出さずにいつまでも暮らせない
    バス通り裏の路地 行き止まりの恋だから
    何処かに行きたい 林檎の花が咲いてる
    暖かい所なら 何処へでも行く
                   「踊り子」―村下孝蔵

そして1999年(平成11年)、突然の訃報。

ぼくと、さほど、年も離れていないのに、そして奇しくも、ぼくの誕生日間近に逝ってしまった村下さん。

なぜか、むしょうに、村下さんの「初恋」の歌詞とメロディーラインを聴きたくなって、その頃はじめたばかりのパソコンで検索して探してみました。

しかし、1999年当時の音楽系サイトの状況では、歌詞の全文も見つからず、MIDIもぼくの感性とは異なるものばかり、気に入るものがありませんでした。

そこで、やむなく、無謀にも自分で納得できるサイトを作ろうと開設したのが、この青春音楽館です。

ギターのチューニングすらも満足にできずに挫折したぼくが、自分の青春時代に流れていた、いまも胸を離れない好きな歌たちを探し、いつでも、会えればいいな、という素直で純粋な想いを募らせて、積み重ねていったのが、いつでも青春音楽館です。

   遠くで僕はいつでも 君を探してた
   浅い夢だから 胸を離れない

あらためて、青春音楽館の開設の機縁となっていただいた、村下孝蔵さんのご冥福をお祈りします。

祥月水無月に、哀惜と感謝の意を込めて…。

                            合掌

(初稿2004.6 未改訂)


ゆうこ

作詞/作曲 村下孝蔵

記憶の陰に ぽつりと座り淋しげに
白い指先 ピアノを弾く女(ひと)

『ショパンが好きよ 悲しい調べ奏でれば
恋のできない 私に似合い』といった女(ひと)

 (Woo ゆうこ) どんな過去が君を 変えてしまったの
 (答えて) 瞳の翳りが せつなすぎるよ

言い出せない愛は 海鳴りに似ている
遠くから絶え間なく寄せ 胸を強く揺さぶる

ピアノの音は どこか冷たくあの女(ひと)は
壁に掛かった モナリザのように

子供のような 僕のことなど見もせずに
真珠のように かたく心を閉ざしてる

 (Woo ゆうこ) かけがえのないもの 失くしたあとは
 (答えて) どんなに似たもの かわれはしない

窓越しに見ていた 黒髪にまかれて
目覚める夢を見たよ 君に届けこの歌

言い出せない愛は 海鳴りに似ている
遠くから絶え間なく寄せ 胸を強く揺さぶる

1982年(昭和57年)
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