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「ゆうやけ」―N.S.P

   あゝ ひさしぶりの 夕やけがきれいです

ゆうやけ(夕焼け)とは、日が沈む頃に、西の地平線に近い空が赤く見える現象のことで、天候不順で長雨でも続かない限りは、そんなにひさしぶりのゆうやけということにはならないと思います。

しかし、秋の空は空気が澄んでいて、他の季節よりは、ゆうやけが、よりきれいにみえますし、夏の季節が終わって秋に向かうと、日没が次第に早くなっていくために、それまであまり気にしていなかったゆうやけを特に意識しやすくなるとされていますので、きれいなゆうやけをみるのが、ひさしぶりのような気がするということでしょうか。

     夕やけ小やけの 赤とんぼ
     負われて見たのは いつの日か
                    「赤とんぼ」−童謡

また、秋も深まるにつれて、気温が下がっていき、なんとなく人肌が恋しくなってきて、ゆうやけがいっそう、目に沁みて、心に沁みて、身に沁みるからでしょうか。(笑)

     夕焼小焼けで 日が暮れて
     山のお寺の鐘が鳴る
     お手々つないで みな帰ろ
     からすと一緒に 帰りましょう
                    「夕焼小焼」−童謡

ちなみに、古来から、秋の夕暮れの美しさは格別と意識されていたようで、新古今和歌集には、三夕(さんせき)といって、秋の夕暮れのあはれの幽玄を詠んだ和歌三首が収録されています。

     さびしさは その色としも なかりけり
     まき立つ山の 秋の夕暮
                  寂蓮法師−「新古今和歌集」

     心なき 身にもあはれは 知られけり
     鴫たつ沢の 秋の夕暮
                  西行法師−「新古今和歌集」

     見わたせば 花も紅葉も なかりけり
     浦のとまやの 秋の夕暮
                  藤原定家−「新古今和歌集」

これらの和歌は、いずれも、いわゆる七五調となる三句切れで、三句目の末が「けり」で終わり、さらに最後の五句目が余韻・余情を感じさせる体言止め、「秋の夕暮」で完結する形式になっています。

     秋は 夕暮
     夕日のさして 山の端(は)いと近うなりたるに
     烏の寝どころへ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど
     飛び急ぐさへ あはれなり
                  清少納言−「枕草子」

ゆうやけといえば、山や海などの雄大な自然の風景の中でのゆうやけ模様を想い起こしますが、もちろん、ゆうやけは、日常の街中での生活空間の風景の中でのゆうやけもあるわけです。

   やんちゃぼうずが走ってく
   このかいわいに夕陽がおちる
   赤んぼだいた婦人がせわしなく
   せんたくものをとりこんで

暗くなるまえまでに帰ってきなさいといわれた子どもは、大急ぎで、ゆうやけの空のもと、帰宅の途につくことになります。

乾いたたくさんのせんたくものを夜露にあてないように、あわてて取り込むお母さんの姿も、ゆうやけの空のもとに見えます。

   子供は好きよといったきみの
   やさしさがゆれています
   あゝ ひさしぶりの 夕やけがきれいです

結婚を意識し始めた若い男女のデートで、ベンチに座っているその二人のもとに、足もともまだおぼつか無いような、小さな子供がヨチヨチと歩み寄ってくると、自然と話題が子供の話しになります。

そんなとき、女の娘は、子育てなんか、なんかメンドーくさそぅやなぁ〜なんてことは決していいいません。

彼もまた、子供は疲れを知らんから、嫌いなんだよなぁ〜、なんてことも決していわないでしょう。

そして、彼女は、お料理は、わたし、下手なのよ、肉じゃがくらいしか、つくれないしぃ…なんてことを、受けを狙っていいます。(笑)

彼もまた、オレ、カレーが大好物なんだょね、きみの作ったカレーなら、毎日でもいいよ…、と、また心にもないことをいうのです。(笑)

子供は何人ほしい?。
野球チームができる9人くらいほしいよね?。
いやいやサッカーできるくらいの11人くらいほしいかなぁ…なんて!!

いやはや、キツネとタヌキの化かし合いですね。(笑)
いやいや、まあまあ、いずこも同じ、秋の夕暮れです。

     さびしさに 宿をたち出でて ながむれば
     いづくも同じ 秋の夕暮
                 良暹法師−「後拾遺和歌集」

   きみはボクのものだよと
   小さい電球だけにして
   きめられた日課みたいに
   口づけするとまた泣いた

キツネとタヌキが出てきましたので、同じイヌ科の本家の代表として、いわゆる「パブロフの犬」を登場させましょうか。

夕やけの話しならば、会員番号の付いたニャンコの話しの方が良いのではないかという方もいるでしょうが、ここは夕やけのニャンニャンの話しではなく、わんこの話しで、そばにいてくださいね。(笑)

さて、旧ソビエト連邦の生理学者、イワン・ペトローヴィチ・パブロフが、犬に対して、ベルを鳴らしてからエサを与える事を繰り返すことにより、犬はベルを鳴らしただけで、唾液を出すようになったというのが、「パブロフの犬」の話しで、条件反射の理論として有名です。

この理論をあてはめると、小さい電球だけにして、口づけを繰り返しているうちに、口づけすると、泣くようになり、または小さい電球だけにするだけで、泣くようになるという条件反射が生じることになります。

これを条件反射とするには、かなり異論があるでしょうね。
涙とよだれをいっしょにするわけにもいかないですし、それくらいのデリカシーは持ち合わせたいものです。(笑)

しかし、泣くということに関しては、100年以上も前に、生理的、身体的な反応、変化が生じて、それが感情を引き起こすとする、つまりは、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ。」という、心理学者のジェームズ(William James)と、ランゲ(Carl Lange)が提唱した、いわゆるジェームズ=ランゲ説と呼ばれる有名な古典的心理学説があります。

ある種の感情が生じて、ある種の身体的な反応が起こる、つまりは、悲しいから泣くのであり、楽しいから笑い、恐いから震えるのだという、それまでの経験則的な常識を覆すような学説でした。

これに対して、生理学者のキャノン(Walter Cannon)とバード(Philip Bard)は、脳の中枢で生じた感情が脳の大脳皮質に伝達されて感情を経験し、同時に身体的反応が生じると主張して、いわゆるキャノン=バード説というものを提唱しました。

さらに、大学の心理学の教授であったシェクター(Stanley Shachter)は、ジェームズ説を発展させる形で、大学での学生とのさまざまな心理実験により、生理的な反応とともに、そのことを認知することが、感情を生成する重要な要因であるとした、情動二要因論を展開していきます。

しかし、いずれにしろ、彼女がなぜ、口づけすると、泣いたのかは、彼はけっしてわからないでしょうし、そしておそらくは、彼女自身もわからないものなのかもしれません。

     君には君を愛する人が
     いつもそばにいるのに
     僕の口づけを うけた
     わけがわからない
                      「面影橋」―N.S.P

     帰る時は口づけ
     そっとしてねといった君を
     おかしいよと おかしいよと
     笑った僕でした
                            「弥生つめたい風」―N.S.P

     僕は今 あの時の 
     君に口づけた 一人の少年
                     「八月の空へ翔べ」―N.S.P

ともあれ、泣くということがストレス解消になり、涙を流すことが、免疫力を高めて、またうつ病の予防にもなるという医学的な研究もすすんでいることですから、みんなで一緒に泣いたらどうでしょうか。(笑)

まあ、すでに加齢により涙腺が緩んだ方々には、お勧めしなくても、すでに本を読んでは泣き、人の話を聞いては泣き、映画やテレビを見ても、よく泣いていらっしゃるかと思いますが。(笑)

   部屋はせまくて暮らしにくいけど
   お金をいっぱいためましょうネ
   あゝ ボクがかんだうでの傷あと 痛くなれ

     三畳一間の小さな下宿
     貴方は私の指先見つめ
     悲しいかいって聞いたのよ
                 「神田川」―南こうせつとかぐや姫

三畳一間の広さというと、メートル法に換算すると、4.9平米(平方メートル)となりますから、いわば正方形だとすると、縦横2.2メートルくらいの部屋の広さになります。

いわゆる四畳半フォークと揶揄されましたが、四畳半なら、7.4平米ですが、それでも、縦横3メートル足らずでしょうか。

おそらく1970年代の多くの青春たちの部屋の広さはそんなものであり、ワンルームマンションの平均専有面積が20平米を超えるのは1995年以降であるといわれています。

まさか、とっても狭い部屋だったから、昆虫や小動物の共食いみたいに、相手のうでをかんだわけでも、目の前にあった相手の小指をかもうと指先を見つめていたわけでもないでしょう。

しかし、やはり、「ヤマアラシのジレンマ(Porcupine's Dilemma)」の寓話にあるように、どんなに親密であったとしても、やはり一定の距離感がとれるくらいの広さは必要なのかもしれません。

まあ、「起きて半畳、寝て一畳」とも言いますから、そんなに広さを求めても、ゴミの置き場を広げるだけなんでしょうけどね。(笑)

     君はさびしくないのかい
     僕は死んでしまいそう
     おでことおでこくっつけて
     また話がしたい
     それからそっとキスをする
     それから長いキスをする
                      「雨は似合わない」―N.S.P

人は孤独のなかに生まれて、孤独のなかに死ぬという、哲学的なことを意識せずとも、ひとりのときの孤独よりも、ふたりのときの孤独の方が、より孤独の深淵に近しいものだということを、人は出会いと別れの繰り返しの中で、経験的に知っていくものです。

しかし、そうとは知っていても、やはり一人じゃ、いられない…。

     夕暮れ時は さびしそう
     とっても一人じゃ いられない
                     「夕暮れ時はさびしそう」―N.S.P

   さびしそうねとボクにいったあとの
   きみのほうがさびしそうです
   あゝ ほんとにひさしぶりの 夕やけが赤々と



この「ゆうやけ」は、1975年(昭和50年)11月にシングルとしてリリースされ、翌年の1976年(昭和51年)5月にリリースされたアルバム「シャツのほころび 涙のかけら」に収録されています。

N.S.Pは、1972年(昭和47年)岩手県にある国立一関工業高専の同級生だった、天野滋さん、中村貴之さん、平賀和人さんで結成、1973年(昭和48年)第5回ポピュラーソングコンテストに「あせ」で入賞、「さようなら」でデビューし、1974年(昭和49年)には、「夕暮れ時はさびしそう」が大ヒットしました。

N.S.Pのリーダー、天野滋さんは、2005年(平成17年)7月1日、大腸がんによる脳内出血で、享年52歳で、亡くなられています。

ご冥福を祈りつつ、天野さんが多くの素敵な楽曲を残してくれたことに改めて感謝いたします。 合掌。

     さびしさも 淀のうたかた 流れけり
     よしきり鳴きて 秋の夕暮れ       路夢

(初稿2010.10 未改訂)


ゆうやけ

作詞/作曲 天野 滋

あゝ ひさしぶりの 夕やけがきれいです

やんちゃぼうずが走ってく
このかいわいに夕陽がおちる
赤んぼだいた婦人がせわしなく
せんたくものをとりこんで
子供は好きよといったきみの
やさしさがゆれています
あゝ ひさしぶりの 夕やけがきれいです

きみはボクのものだよと
小さい電球だけにして
きめられた日課みたいに
口づけするとまた泣いた
部屋はせまくて暮らしにくいけど
お金をいっぱいためましょうネ
あゝ ボクがかんだうでの傷あと 痛くなれ

さびしそうねとボクにいったあとの
きみのほうがさびしそうです
あゝ ほんとにひさしぶりの 夕やけが赤々と

1975年(昭和50年)
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